ξ
慢性疼痛と急性疼痛は、メカニズムではなく持続期間によって区分する概念とされている。
つまり疼痛が慢性化したら突然心因性に変わったりしないということである。
急性疼痛のほとんどは侵害受容性疼痛と考えてよいが、慢性疼痛には侵害受容性疼痛、神経障害性疼痛、非器質的疼痛(心因性疼痛を含む)のすべてが含まれることになる。
これは納得のいく説明である。
疼痛が慢性化したら、気のせいだ、気にしないといったアプローチに特化されても困るし、NSAIDsと湿布を出すだけというアプローチも困る。
自律神経系、内分泌系異常も考えられるのだから
継続的な苦悩→自律神経系異常→血流不良→酸素・栄養不足→疼痛といった機序が想定されたら
たとえばトリガーポイントブロック注射*1による血行改善、温熱療法、運動療法などの身体的処方が実施されなければならない。
または自分で実施しなければならない。
疼痛自体が自律神経・内分泌系異常や苦悩を増幅させてしまう逆ループも当然考えられる。
だから疼痛は炎症が治れば解消するとして放置されるべきではないと思うようになった。
疼痛自体が対処すべき病状なのだと気付いた。
疼痛が軽減されてこそ心がまともに働くだろうということは誰でも想像でき、また経験している。
反対に心の持ち方によって疼痛が軽減されることは
人間の本性としてあり得る(心頭滅却)が、その確率はいかにも小さく当初から治療手段とするのは不自然である。
いったんは疼痛を器質的なメカニズムの異常として徹底的に考えていくことが必要だと思う。
ξ
一方、心的外傷のようなものに伴ってしまう疼痛はどうすればよいのだろう。
病気になって初めて、誰でも程度の差こそあれ心的外傷に苦しめられていると思い至った。
僕らの心は、性格・個性としてやり過ごせる散発的な心的動揺(何とかなる)から、治療を要する心的障害(パニック、異常行動、激しい疼痛などがある)までの長いスパンのどこかに置かれている。
しかも同じ場所にとどまることなく揺れている。これは何という不安だろう。
ξ
心的外傷は「取り返しのつかないニガイ記憶」や「予期から大きく逸脱した出来事の記憶」としてとらえられる。
そこで心的外傷について物語化による救済を考えてみる。
僕らが、世間や他人との違和感に絶えず緊張しながら苦悩を感じ続けているとき
自分史のなかで心的外傷と呼べるものに行き着いたなら
物語化して心の負担を減らそうとするのは当然なことに思える*2。ワラうことはできない。
軽度で日常生活に差し支えるとまではいえなくとも
- 他者やその言動を楽しめない不寛容・距離感
- ふとした知覚で浮かんでくるうっとうしい情動
- なにか特定しがたい生きづらさの自覚
のような思いに苛まれながら生き続けることは辛すぎるからだ。
ξ
しかしこの操作には、いくつか問題があるように思われた。
しばらくは身近な把握可能感のある物語化は成功するだろうが
物語化の方法は、他者が介入しない限り自分固有の思考パターンに制約されているし
いずれ拡張していけば無意味・無効なファンタジーに到達するだけといった懸念がある。
もうひとつ
恐怖感、憤怒感、絶望感、無力感、罪悪感、挫折感などの強い情動を伴う「取り返しのつかないニガイ記憶」など本当にあったのだろうか
「取り返しのつかないニガイ記憶」があると僕が考えていたのは実はでっち上げにすぎないのではないだろうか
という疑念も否定できない。
もちろん呼び出されたさまざまな記憶・情動・疼痛は、仮病でないかぎり現実である。
しかし僕らは人間が人間たる所以から
予期の破たんした記憶や付随する不快な情動、身体症状を創作(偽造とも呼ばれる)できる。
病的なケースとして典型的なのは、幼少期の性的記憶のように成熟するにつれ、あってはならない予期の破たんに再編・強化された創作物によって、異常な情動や身体症状に直面してしまうケースである。
ξ
今でもこの心的外傷型の疼痛にどういう手順で対処すべきなのか確証が持てないが
体験的には、長く放置された痛みでなければ抗不安薬、抗うつ薬、抗てんかん薬、睡眠導入薬、鎮痛薬などの投薬治療でかなり改善するような気はしている。
フラッシュバックがおさまった頃から
記憶なら忘れられるもの、外傷なら治癒できるもの
という他愛もない自然の生理への気付きを根拠に
ファンタジーかもしれない心的外傷、情動、疼痛に囚われることのないよう思考パターンに言い聞かせてきた。
ここでもまた、(心の持ち方が問題だとして)当初から思考パターンの気付きばかり要求されても心は受け入れられない。
それは、かなりの程度情動や疼痛からフリーになってからの話だといえる。
顔を上げ背伸びして深呼吸してアウトサイドに足を踏み出してみる
そのあとにようやく気付くような話だといえる。