ξ
まだ僕が若かった頃、4人の親の先頭を切って実母を喪った。
そんな日でも集まった子供らが夕飯をつくりはじめ
味のわからぬまま口に運ばなければならない夜が不思議でならなかった。
一方、久々に祖父母の家を訪れた幼い子供は
家の中を走り回り、テーブルの下に隠れて遊んでいたり
そういう姿をみると
僕にとって死はまだナジマネェーと思うほかなかった。
死者は冷え切った石のように冷たく硬いものだと根拠も無く思いこんでいた。
しかし額に触れても頬に触れても少しも冷たくはなく
むしろその弾力を感じとることができた。
それはそうだ、無処置の遺体が常温以下に冷却するわけもなかった。
目を覚ますとは思っていなかったが、手のひらで母の額や頬の弾力をしばらく感じていた。
母の弾力とはこういうものだったのかと思った。
ヒトは身近な他者の死に際して、誰かから元気をもらったとか、勇気をもらったとか、励まされたとかいう体験に、慰藉を感じることはない。
元気が出て勇気が湧いて励まされることがある、というだけである。
基層のように沈んだ空虚や喪失が、埋められたり、消えたりすることはない。
ξ
ヒトは他者の死を
法事や墓参や命日や仏壇の世界に畳んで仕舞い
生者の世界と巧妙に区別してきた。
つまり敬い畏れ、時に思い出し、忘却する方途を考えてきた。
他者の死を考え続けていたら普段を生きていけない。
他者の死は日常にあってはいけない。
他者の死は時々の追憶の中にあるべきものとしてきた。
高度な精神文化をもつ縄文人の特集番組を観ていたとき
死んだ子供の足型をとった薄いプレート状の土器が映し出されていた。
それにはとても小さな足型、つまり乳幼児も含まれていた。
紐をとおせる小さな穴があって、親は首から下げていたか住居内に吊るしていたとみられている。親と一緒にそれら小さな土器が埋葬されていたという。
当時の病気、飢餓、自然災害への対処の厳しさを想像すれば、幼い命は容赦なく失われただろう。
しかしそれは親が子供の死後も共に生きるための記念だったとは思えない。
身近な他者の死を片時も忘れず泣き崩れて、ヒトは生存していくことはできない。
ヒトは生き残るために、理不尽であれ受容すべき節理(せつり)とか死者が行くべき別の世界とかの観念を、このとき、すでに生み出していたと思われる。
これらの小さな足型土器は、節理を受容して死者を送り出す記念だと思われる。
そうして生き残った者の生存を守ってきたと思われる。
ξ
何かの映画の、先立つ他者の死に際して、彼(彼女)は神の御許に召される幸福を授かったのです、という残された者を慰藉する牧師のセリフを覚えている。
早世した者は不幸ではない、あなたより先に神の御許に行けたのだから、あなたはもう元気を出して生きなさい、という意味だと思った。
いつ頃からか、積み重なった身近な他者の死が、ワァーッと風が立つように、親和性をもって訪れることがある。
身近な他者の死についての、霊魂不滅、前世の記憶、生まれ変わりなどのスピリチュアルな論は、遺された者を慰藉するための思想と考えられる。
身体を離脱した魂は生きており、いずれ生まれ変わってくる。そのとき前世で出会った魂と再び出会うのだ、といわれたらどれほど慰藉されることだろう。
現世を魂の成長の場と考えたなら、身近な他者の死に直面した者は残りの生をおろそかにはできなくなるだろう。
人類が戦闘や病気や自然災害で繰り返し多数の命を失ったとき、生者を慰藉し生きながらえるよう霊魂不滅の思想を生み出し精緻化していったと考えることは難しくない。
しかし
生きて繰り返し追体験できない死後の世界をあれこれ詮索するよりも
死者は、お星さまになっている、風のなかにいる、山の頂きにいる、川の向こうの彼岸にいるというような、子供の頃からの刷り込みの延長線上にある、普遍的・土着的な死生観の
もはや現生に戻ることのない存在なのだという諦観と
いずれ同じように死を体験していくのだという一体感のほうが
はるかに無理なく僕を慰藉してきている。*1