たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に不明熱で入院、急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。

母が遺したもの、僕が遺せるもの

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ξ  

2004年1月公開の韓国映画ラブストーリー

母のラブレター」と、死別した恋人の日記と、一枚の写真を、娘が発見するところから物語が始まります。

母が決して捨てられない記憶として戸棚の奥に、ずっと仕舞っていたものです。

娘は、このラブレターと日記を読み進むにつれ、母の痛切なラブストーリーを追体験することになります。

それとともに、みずからも母の記憶と結ばれた数奇な運命に巻き込まれていることに、やがて気付きます。

 

当時、気にかけていた評論家・川本三郎氏が新聞の映画評で絶賛していたので観に行ったのです。

クァク・ジェヨン監督の他作品と異なり

終始、木綿の手触りのような感触の田舎くさい純朴さ・素朴さを全面に出したこの作品に、僕は深い愛着を覚えます。

裕福な家庭に生まれた母は、ベトナム戦争の1960年代、若い男女間の、まだ慎ましさや節度を旨とする時代を生きました。

フォークダンスという稀有な交流の機会に、主人公二人が眼と眼だけでやりとりをする抑えられた交歓は、胸のときめく名シーンです。

なんと雄弁な眼差しなのでしょう。

 

ξ 

知人のリウマチ患者だった母親が、間質性肺炎で亡くなりました。

MTXや生物学的製剤のおかげで苦痛が軽減され穏やかな老後だったと聞きました。

 

免疫抑制下で合併する感染症の半分は呼吸器感染症ですし、間質性肺炎でも日本ではニューモシスチス肺炎の併発頻度が高く、後天性免疫不全の場合より急性かつ致命的な場合があるとのことなので、急な発症時は油断するものではありません。

 

僕がまだ炎症痛と熱っぽさと例えようのない倦怠感を抱えて、一日の多くを横たわって過ごしていた時期に、突然高熱を出して夜間救急に向かったことがあります。

 

ξ  

処置室のベッドで、いつになっても来ない医師を待っているうちに高熱の疲れか意識が遠くなって

こうして人は死んでいくのかなぁ、預金通帳の場所もちゃんと言ってなかったなぁ、仕舞ったなぁというようなことを思い浮かべていました。

恐怖というものは全く感じませんでした。

感受性と思考力には、きっとキャパシティの限界があって、毎日の苦痛やこの発熱でもはや思考停止状態になっていたのではないかと思います。

 

いずれにしろこの発熱の結果、12mgまでいったMTXは、「教科書」どおり一時休止です。

その後、半量(6mg)からスタートして増量再開です。

今度はニューモシスチス肺炎の予防薬としてバクタ配合錠が増え、肺炎球菌ワクチンも接種されました。

 

ξ   

熱が下がると、僕は徐々に終活を考えるようになります。

金銭や相続の整理に別に複雑なことはありませんでしたが、墓の移転とか子供には遺せない何とも厄介な事柄は先送りして座ってできる終活を続けます。

座ってできる整理の対象は、カビ臭い古い書籍、ビデオ、CD、DVDなどで、次のいずれかに該当するものとしました。
① 遺された者にとって意味がないと思われるもの
② 僕が残りの人生でもう手に取らないだろうと思われるもの

 

ξ  

窓を開け放ち、マスクと軍手で仕分作業を続けたものの、その場で本やライナーノートを読みだしてしまい全く遅々としたものでした。

僕の持ち物の大部分が、自分にしか意味のない、自分の記憶のために所有しているに過ぎないという発見は案外ショックな事実でした。

相当処分したはずですが、子供は「何が減ったの?」といった反応で、それはそのとおり、本が減っても本棚はそのまま、CDやDVDが減っても収納棚はそのままで、物量でみればゴミの減少は微々たるものです。

 

結局、時間をかけて僕がしていたのは、僕自身の記憶との再会と決別といったものなのでした。

カビ臭くとも未練がましく1冊も「燃えるゴミ」にできなかったのは、大量の映画・コンサートのプログラムでした。

当時の記憶が連鎖的によみがえってしまうからでしょうか。

あんまり自分を追い詰めないで第二段の処分にしようと先送りしました。

 

ξ  

僕は母をすでに亡くしています。

突然に、こちらに何の覚悟もないうちに他界してしまいました。

母のたくさんの遺品は無論引き取りようもなく、最後に僕が手にしたのは母の写真といくつかの母の筆跡の色紙だけでした。

そして産廃トラックを頼んで、勢いよく処分してしまいました。

母には幼かった孫のことも含め世話になった記憶しかありません。

世話をしたことが全くないのです。丈夫な姿の記憶しかありません。

母を亡くした僕が失いたくなかったのは記憶だけだったようです。

それでもこの記憶は僕の代で終りです。子供たちは写真のなかの祖母を言い当てることしかできないでしょう。

 

そうなんですね。

何が遺ったかと思ってみるのは、母ではなく遺された者なのですね。

僕が何を遺せるかなんて考えても不遜、思いあがりというものです。

 

こうして

人の世話になり過ぎず、自分の体でいくらかは気持ちよく人の世話ができ、そこそこ逸脱しながら寿命に応ずることができたら、なかなかよく生きたといえるのではないかと

最近のそんな気分を、僕は気に入っています。