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たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年初めに不明熱で入院、急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつドラッグフリー寛解を目指す。そしてゆっくりとリウマチ治療について考えていきたいと思います。

「痛みって孤独が好きだよね」という官能性を超えて

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「痛み随伴性サポート」と「社会的サポート」

慢性疼痛の研究の中では二つの種類のサポートの仕方があると言われています。

一つは「痛み随伴性サポート」と言われるものです。

痛んでいる相手に共感して痛みを取り除いてあげようという形で、相手が「痛い痛い」と表現するたびに、それに応答義務を果たすような形でいろいろ手立てを講ずるという、極端に言えば、痛みに振り回された形でのサポートです。

もう一つは、「痛い痛い」と表現する人の痛みはさておき、それ以外の部分、例えば社会復帰のための手立てを講じるとか、身体が不自由であれば介助するとか、痛みとは関係のないところでサポートをしていくもので、これを「社会的サポート」と呼んで前者と区別しています。

そして、「痛み随伴性サポート」は、痛みをかえって悪くすることがわかってきています。

一方で、「社会的サポート」、痛みをある種無視して本人を手助けするサポートはよく転がる場合が多いと言われています。

ここにすごく難しいところがあると思っているのですが、臨床的には非常に重要な違いだと思います。*1

 

 とにかく炎症を抑えることから

まずはっきりさせておかなければならないのは、前記の引用は慢性疼痛の場合であって、関節リウマチ活動期のような多発性関節炎による炎症痛=侵害受容性疼痛の場合と区別する必要があります。

炎症が強い場合はとにかく「治療」により炎症を抑えるべきで、放置すれば軟骨が破壊されて関節変形の重大な原因になるし、また慢性的炎症が将来の心血管系疾患に繋がることもわかっています。

 

CRPが高い頃、風呂やトイレで着衣を脱ごうとした時、肌に擦れるだけで異常な刺激感があったり、人に触られるだけで声を上げたくなるほど身体に響いたことはないでしょうか。

テーブルの脚に自分の足が当っただけで動けなくなった経験はないでしょうか。

のけぞるのでそんなに痛いのかと人は思うでしょうが、痛いというのは正確では無く全身がガラスになっているかのようにガーンと響くのです。

炎症物質が全身に回って至るところで血管炎を起こしているからだそうです。

皮下梗塞や網状皮斑のような異様な皮膚症状も目につきます。

 

この時期はあらゆる動作に緊張が伴い、性能のよくないロボットのようなゆっくりした動きしかできません。

炎症が治まればいずれ改善するので、CRP、ESR、MMP-3などについて、まず基準値内を目指すのがリウマチ治療の出発点です。

 

語ってしまったこと、語りが許されること

痛みの原因は複雑で、炎症が治まってきても痛みが消えなかったり新たに痛み出したりします。

そうなると慢性疼痛(非器質的疼痛、治りにくい神経障害性疼痛を含めてよいかも)とみなしたくなる時期になります。

それをロキソニンボルタレン、セレコックスなどNSAIDsの世話になりすぎず、どうやり過ごすか考えるようになります。

 

熊谷氏は、本書の中で「二次障害」により首付近に強い疼痛を感じ、ドクター・ショッピングしてしまった経験を述べています。

ようやく3か所目の医師のところで「何も治療する必要はありません」と言われ、すっと痛みが引いていく体験を味わったと書いています。

これは本書で繰り返し語られるエピソードであり熊谷氏にとって痛みを考える重要なモチーフになった事件であることがわかります。

痛みが軽くなった理由についてはっきりしないのですが、

痛みが出てくるようになった時期の心の鬱積をえんえんと医師に語ってしまったこと、そのわけは、

とりたてて他と異なる専門知を持った医師でもなかったのに語りが許される信頼感を初めて感じたから、

と読めます。

最後に「熊谷くん、もし何かあっても、うちの科が全力を挙げてサポートするからね」(同133ページ)と言われ、ものすごく感動してそこから楽になったと述べています。

熊谷氏は「体の痛みには問題の核心はなかった、むしろそれが何かを隠していた」(同134ページ)かもしれないと述べています。

 

他者の「痛み随伴性サポート」は難しい

通常、家族・介護サービス・患者グループなどによる「痛み随伴性サポート」はたいへん難しいと思います。

たとえば「痛みって孤独が好きだよね」*2といった強い内閉性、まったくの個別性に対し、本人以外の他者が随伴していくのは相当困難だと思います。

なぜなら、この感受性、この「痛むこと」には屹立する甘美な官能性が隠れていて、他人を寄せ付けない空気が感じられるからです。

 

リウマチ患者に過ぎない僕のセンスでいえば、「痛み随伴性サポート」は専門知を持ち処方箋を書ける医師と看護師に限定しておきたい気がします。

医師(と看護師)対患者という関係では「俺の痛みなんか誰にもわかるものか」といった痛みの内閉性が表面化して衝突することもないでしょう。

 

わかってみたら身も蓋もないことが大切

身体を超えて慢性疼痛の認識を拡大して見せる本書の論調には違和感を感じます。

僕が求める解決の方向は、どのような痛みであれその機序・構造をはっきりさせることです。

そうしないと何かが隠されたままの痛みの神秘化・呪術化と紙一重の世界に入っていくように思います。

 

そうではなく何らかのシナプスに過剰に信号が流れていることが痛みの原因ならそれを抑制する、遮断する、逆であれば促進するといった治療に向かえば良いだけの話です。

こういうわかってみたら身も蓋もないことを解明する医学こそ優先されるべきだと思います。

 

「社会的サポート」は関節リウマチでは相当実践されている

関節リウマチの「社会的サポート」は家族・介護サービス・患者グループによって大いに可能であり相当実践されてきた歴史があります。

「なにか美味しいものでも食べに行かない?」

「今朝は金木犀の香りがすごい! やっと秋になったんだね」

といった語りかけも「社会的サポート」だと考えられます。

そのうえ本人の語りを許す信頼できる他者がいたなら本当に幸運です。

 

急性期を抜けるにつれ傍らの他者は「痛み随伴性サポート」から「社会的サポート」に自然に移行していることもあるでしょう。

患者同士でもいつの間にか「社会的サポート」に移行しうまくいっている場合もあるでしょう。

 

こうした新たな社会的経験の蓄積がいずれ疼痛というものに上書きされ、塗りつぶしてしまうことは、慢性関節リウマチではすでに常識であるように思います。

だからこそわかってみたら身も蓋もないことが残された優先課題なのです。

*1:熊谷晋一郎ほか『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』30ページ

*2:女性薬物依存症回復者グループ代表の発言、前掲書35、64ページ