ξ
発病前と少しも変わっていなかった現実は、再び目の前に登場してくる。
どのみち誰も逃亡者にはなれない。
ヤレヤレと対峙していくほかない。
腕を切る(注:リストカットのこと)ときも最初は予測からのずれがあると思うのですね。
「案外痛い」とか、「案外血が出ない」とか。
でもそのうち学習しますから、すぐに予測可能な行為に成り下がっていってしまって、覚醒作用としてはあまり機能しなくなる。
そうして夢の世界にどっぷり漬かり込む。
日常が覚醒なのか夢なのかについては微妙なところがあると思うのですが、予測からの大きなずれをバンと経験したとき、「危ない!」となって引きこもる小さな世界で、より予測可能なもののなかで過ごしたいと願うのが人の情だと思います。
でもそれを繰り返していくと、悪循環というか、最初の一撃の記憶がずっとフラッシュバックでこだましつつ、でも生活は小さいファンタジーの世界にはまり込んでしまう、ということになります。
そこからもう一回引き出してくるのも、これまた大きな「傷」だと思います。
その小さな世界の予測からのずれが引っ張り出す力になるのかなと思います。*1
予測不能なものにガクンと傷ついてしまった苦悩を癒そうとすれば、その解決も予測不能なものに再び向かう行為にしかないという恐怖。
予測可能な夢(ファンタジー)という限定的、固定的世界から抜け出そうとするプロセスは、
想定外の領域に向かって、まだケアが無くては生きていけない無防備な体を投げ出し続けることなのだ、
それは想定外への過敏さを持つ者にとっては、とても大変なことなのだ、
と語っている。
医師として研究者として心の優しさが包まれた言葉だ。
ξ
想定外への過敏さを持つ者とは 、医療だけでは救い難い、この世の「多重債務」をかかえて生きてきた人々の破たんの姿のように思える。
過敏さの理由をひとつ、ふたつ挙げてこと足りるような人々ではない。
こうしてごく少数の想定外への過敏さを持つ者が病者とし浮かび上がってくるはずだ。
なのに 想定外への過敏さを持つ者を偽装する者がそこそこいるのにはうんざりする。
なぜ?
上記引用から類推するに、夢(ファンタジー)の世界は居心地がいいからだ。
世間からの逸脱、他者との差異を夢(ファンタジー)のなかで正当化して閉じこもる彼らの一部は、病気なりたがり症候群という夢(ファンタジー)すらつくりだす。
見聞きの範囲では病気なりたがり症候群は若者から寝たきり高齢者まで広く存在している。
傍らの介護者がそれを助長している場合もある(金銭の授受またはその期待、まれに共依存)。
逸脱や差異に目を伏せてみるのではなく、君とは、世界とは、違うのだと人さまを呑みこんだ方がいい。
人さまの鏡映りを気にしたまま生涯を終えるつもりなのか。
そもそも人さまの鏡に映る程度の存在だったのか。
(ドラキュラは映らない)
いったい何を恐怖しているのだ。
鼻歌まじりに、そう思ってみるのがいい。
*1:熊谷晋一郎『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』、140~141ページ、2013