たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。

「心理学化」の海を離れる

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ξ

精神科医斎藤環氏は『心理学化する社会』(河出文庫、2009)で、心の不調を訴える人々の潮流を解説した。

これらは執筆時期からして1990年代の潮流だが、現在では、ブームを終え定着していると考えていいと思う。

 

本書から僕の関心事項を中心に、9個にキーワード群として整理してみると次のとおり。

(青書きは僕の経験にもとづく補足です。)

 

1.心理学的知識の広範囲の普及

2.精神分析的な知識を用いた自己分析、精神分析プレイ

 

⇒ 多くの人々が社会的に不安定化する自己について、自分とは何か、心理学的、精神分析的に考え自ら説明するようになった。

心理学的、精神分析的知識は、ネット上にも書店にもエンターテインメントにもあふれるようになった時代だからこそである。

 

3.境界例、ひきこもり、アダルトチルドレンによるトラウマ語り、家族史語り

4.性急な「自分探し」と性急な「癒し」願望

 

 ⇒ その結果、トラウマブーム、自分探しといった潮流を生んだ。「不幸自慢」、「痛いもの競争」という悲惨比べで競うことさえみられた。

 

5.精神疾患の軽症化、狂気の軽症化、狂気と健康の境界線の曖昧化、精神科クリニックの開業ブーム、サイコビジネスの需要増、病識のある(自己申告する)精神病患者の出現

 

 ⇒ つまり世間からの逸脱・他者との違和感を受け入れられない人々の精神疾患の軽症化が起こった。それは病名ほしがり・病気なりたがり症候群を含むことになった。

 

6.心理学的説明の脳科学化、心身の同一次元化

7.心の身体化、心の単純化、心のモジュール化→操作可能感とカウンセリングの流行

8.ネットにおける「モジュール化した心」の出会い、個人対個人(全人格的)の出会いはない、対人恐怖症から醜形恐怖へ(心の葛藤の無化)

 

⇒ 心の身体化により、その除去が困難で治療上の課題とならない身体「障害」との親和性を持つようになった。

すなわち心の不調は恒常的なハンディキャップ的属性としてとらえられるようになった。

心の不調は治しようのない身体「障害」身体「属性」でありたいと願うようになった。

それは身体のように多様な操作・管理の対象とする一方、心の葛藤(従来の神経衰弱、ヒステリー、ノイローゼなど)を強調しない動きといえる。

 

9.あらゆる構造的因果性がシステム論的記述に置き換えられる時代

 

⇒ 病気ならさっさと完治させ日常に戻る義務感が伴う<非日常>であるが、現在の自己というシステムの属性または要素として認識することで恒常化、日常化する傾向を持った。

「悪いのは誰?」 という問いの答え(因果構造)がはっきりしなくなった。「それも含めてワタクシというもの」などという言い方、理解の仕方が好まれるようになった。

 

ξ

「観察者」としてみれば「心理学化」したとされる社会はこのように時評的に記述されるだろうし、僕も一歩引いてみれば

めぐる環境が強固で一様な世界と見える以上、増多・変動する心の不調は構造的因果性を追求するよりシステム論的説明による方が理解しやすく好まれるかもしれない

と思える。

 

しかし「観察者」からいくら潮流を説明されても、当事者の回復・再生のシナリオは全く見えない。

循環する自己システムを変える仕掛けが、外から戦争や大規模災害や異常体験といった予測不能な、不可抗力な事件としてやって来ないとすれば、どうしたものだろう。

 

僕は、苦労の解釈や解決を専門家に丸投げするユーザーではなく、当事者がその研究を引き受けること自体が生きやすさにつながるのではないかという考え方でアキラメがついた。

 

医師はその成り立ちからして「観察者」以外になれない。共有しているのは疾病名だけだとようやく気付いた。

 

ソラリスの海のように暗く不気味にうねる心理学的循環の終わりのひとつは、

当事者がいずれ語りに飽きたとき

これはトラウマ語りだね、これは自分探しだね

といった自覚的な繰り返しに当事者自身が飽きたとき

訪れるだろう。

 

当面、僕は

どうせ長年かけてできあがった思考パターン、長年かかってしか変わらない、必要な処方薬に頼りながら、とがったりへっこんだりしながら、そんなものだろうと日々を送っていく。

消えない痛み、慢性疼痛と同じだったワネ。