ξ
「がんと闘うな」で有名な近藤誠医師の食事への姿勢は、別に変ったものではなく真っ当な主張*1に思え、療養中の身にとって参考になった。
しかし、その本には釈然としない部分もあった。当時の違和を振り返れば、次のようなものである。
作家の曽野綾子さんと対談したとき、若いころ、視力が0.02しかないのを気に病んで長いこと、うつ状態が続いたという話をうかがいました。
それが、仕事でトルコに行ったことをきっかけに、一気に治ったそうです。
「まず飛行機でイスタンブールに降りて、車で500kmぐらい走ってアンカラに行ったんだけど、途中ドライブインとかなにもない。
道も悪いし、混んでいて、予定を何時間過ぎても着かないんです。」
そのとき、食べもののことしか考えていない自分に気づきました。
それまで何年もずっと「目が見えないから死にたい」と思い続けていたのに、異国で車がいつ目的地に着くのかわからなくなったら、考えることはただひとつ「いつになったら、ごはんを食べられるのだろう」ということだけ。
「ああ、私の自殺願望ってウソだったんだなぁって、自分をあざ笑えるようになったら治っちゃった。うつ病患者には、なにも食わせないのがいいと思いますよ」
あっけらかんとおっしゃるので、こちらも思わず笑ってしまいました。
死にたくなったら、腹ペコ療法を試してみてください。
水以外なにも食べないで、とことんお腹をすかせてください。(脚注書)
ξ
これらの「処方」は、いくらか当たっているかもしれないという程度のものに過ぎない。
いったい、この人たちの「うつ病患者には、なにも食わせないのがいいと思いますよ」という述懐の粗雑な人間理解
死にたくなったら水以外は何も食べるな、というような粗雑な人間理解はどこからくるのだろう。
この人たちは、本当に文学者なのだろうか、本当に医師なのだろうか。
この程度の人間理解で小説を書いているのだろうか、この程度の人間理解で治療しているのだろうか。
この文学者の小説に登場する人物はこのように簡単に仕分けされ切って捨てられていくのか。
人間理解に対する謙虚さはないのか。
ヒトの心はもっと得体のしれないものではないか。
ある入院病棟の治療プログラム実践の報文*2を読むと、次のような人々が記録されている。
- Aさんは、ファンタジックな妄想の世界で山姥(やまんば)と一人で闘い続けていた。
- Bさんは、あるグループに街中で後を付け狙われていて、退院して地元に帰ったら、再び付け狙われるに違いないという妄想的確信を持っていた。
- Cさんは、組織に狙われていて、その組織の人間が体の中に入り込んでいて、夜な夜な悪さをしてくるのでいろいろな工夫をしながら闘い続けていた。
- Dさんは、悪魔から嫌がらせを受けているという妄想をもっていた。嫌がらせを受けていることは自分の体感から間違いのない事実と確信していた。
こういう要治療の例でなくとも、僕の知人の父親が投資詐欺で数百万円取られた最近の事例でもいい。
配当が途絶えたので、解約したいと申し出たところ、それは無理、10万円出せば半額返還するようにできると言われ払い込もうとしていた。
気付いた子供たちがそれも詐欺だからやめろと言っても全く聞く耳を持たなかった。
「たった10万で大金の半分が返ってくるのだから払って何が悪い、電話の対応はとても親切だった。」
失ったものが少しでも取り戻せると聞かされたとき、なぜヒトは、こんなにマッシロになってしまうのか。
なぜ何かに憑かれたようにバランスを失ってしまうのか。
痛切な後悔なのか自尊心なのか。それとも加齢による思考力のキャパ・オーバーなのか。それとも何か脳神経に病的な異常があるのか。
ξ
著者は別に悪意はないのだろう。
医療者対被医療者、医療を与える側と受ける側というモダンの社会フレームのもとで、善意で発言したと信じているかもしれない。
しかし
医療を与える側という既成エスタブリッシュメントの立場にいるからといって、治療成績不詳の、無責任な、緊張感に欠けた、ヒトの心を舐めた発言をしても許されると勘違いしてはいけない。
それが当時の違和のわけだといえる。