ξ
僕は、この新聞記事をずっと考え続けている。
しかし、まだしっくりとこない。
熊谷:
・・・誰もが「これほど有能で社会に有益である」という理想の自分と、現実の自分にはギャップを抱えている。
そのギャップを生きるには、3パターンしかありません。
理想を達成し続けるか、単に諦めるか、愚痴るか。
愚痴るとは、ギャップを連帯資源にする優れた方法です。
「なかなかうまくいかないね」と言い合いながら他者と交流し、共に生きる。
だが今は、現実を上げるか理想を下げるかしか知らないナルシシズムがまん延しています。・・・
<現代人の「生きにくさ」 ゲスト・東京大准教授、熊谷晋一郎さん(その1)>
「愚痴る」とは3番目の選択肢になり得るのだろうか。
勝ち組と負け組の2分法でいったら、負け組のほざき、ではないか。
理想の自分に届かない=社会で有用性を発揮できる能力もなく評価されないギャップそのものを、他者との連帯資源にする優れた方法といってよいのだろうか。
ツマハジキにされた者同士、傷を舐めあっているだけじゃないか、と言えないだろうか。
たぶん現実を頑張って上げるか理想を下げて満足するかといった2分法で世界を考えていくと
「愚痴る」というパターンが選択肢になり得ることの意味がわからないのだ。
僕は僕自身の「再生」の、大切な手がかりのような気がして、ずっと考え続けている。
ξ
札幌に日帰りできない長い出張となると、昔は、数の少ない社用車は使用できず鉄道利用となっていた。
そして帯広から北見に移動するケースでは、北海道の中央部を縦に走る単線で確か1両か2両編成の池北線(ちほくせん)*1を使うしかなかった。帯広での現場を終わってからの移動だから、真っ暗のなかの、全くの孤独な旅だった。
ずいぶん乗った頃、足寄(あしょろ)だったか陸別(りくべつ)だったか忘れたが、若者たちが、帰省していたらしい仲間をホームに見送りに来ていた、ちょっとした騒ぎに出会った。
そのとき思いがけないセリフが聞こえた。
「東京なんかに負けるなよー!」
今日中に北見あたりまで行って、明日女満別(めまんべつ)から羽田に飛ぶのかなぁとぼんやり思った。
その頃、東京はバブルを極めていく国際都市、アッシー君とかメッシー君とかミツグ君とかいう連中も誕生していたかもしれない。
東京近郊の高級リゾートホテルの、1年後のクリスマス・イブの予約がいっぱいでとれないという報道にびっくりした記憶がある。
若いカップルたちが押さえていたそうだ。
遠く離れた地で黙々と移動しながら仕事をしている者にとって、どこの世界の話なのかと思われた。
僕と同世代のまだ若い連中の、仲間を見送るときの軽いノリだったに違いないが、「東京なんかに負けるなよー!」という叫びが、なんか切なく胸を打った。
東京はメカニカルに時間の流れる硬質な場所、ここはいつも仲間がいてゆったり時間の流れる慰安の場所といった区分は、まだたっぷりあったと思う。
「故郷に錦を飾る」ため「身を立て名を上げやよ励めよ」とは、さすがに時代は違っていたが
『木綿のハンカチーフ』の「恋人」のように
いったん東京に行ったらもう気軽に帰ることはないのではないか
滅多に会うこともなく互いに、次第に忘れていってしまうのではないか
という怖れや感傷は間違いなくあったと思う。
ξ
この10月のある日、朝里(あさり)とか銭函(ぜにばこ)とか、付近に昔の雰囲気がないわけではない駅を懐かしく通り過ぎて札幌に着くと
壮麗な駅ビルの中のアイスクリーム店「グラッシェル」*2で一休みした。
静かな雰囲気のなかで、色鮮やかで美しく甘いアイスクリームを味わっていると、この感じ、どこかで経験していると思った。
そう、東京駅前の丸ビルやオアゾのなかのカフェにいる感じ、そういう都市的なくつろぎ、安心感とそっくりなのだ。
これは道外や外国の観光客を招くのに極めて好都合だろう。
こういうアメニティーは世界共通的な都市インフラのものだからだ。
事実、「グラッシェル」に観光客らしい二人連れの若い韓国人女性が訪れてきた。
そして運ばれてきたアイスクリームをしきりにスマホの写真に収めていた。
きっと飽くことないリア充のアカシとしてSNSにアップするのだろうなぁと思いながら見ていた。
これは微笑ましい光景である。
こういう世界共通的な都市の魅力には抗しがたい、のです。*3