たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。

「身体」と「心」について読むと、 (2)

ξ

心的なものを、意識的なものと無意識的なものに区別することは、精神分析の大前提である。

この区別に基づくことで精神分析は初めて、心的な生において頻繁にみられる重要な病理学的なプロセスを理解し、科学の枠組みにおいてこれを分析する可能性を確保できるのである。

言い換えると、精神分析では、心的なものの本質は意識のうちにはないと考えている。・・・

 

哲学的な素養のある多くの読者にとっては、意識的でない心的なものという理念は非合理的で、基本的な論理法則に反するものと思われるだろうし、理解しがたいものであろう。

しかし読者がそう思うのは、病的なものは別として、催眠術と夢の諸現象を研究したことがないためである。・・・ 意識の心理学では、夢と催眠術の問題を解決することはできないのである。

 

フロイト「自我とエス」、『S.フロイト自我論集』所収、ちくま学芸文庫、1996)

 

フロイトにおいては、無意識は抑圧または忘却された記憶を含み、意識よりはるかに広大で、心的な動きの本質は意識ではなく無意識のうちにあると考えられています。

たしかに無意識の存在を仮定するとたいへん便利で、ワタシたちも日常会話でよく使うほどです。

 

しかし、抑圧されたり忘却したりした遠い記憶も、意識の辺縁として意識の一部に入れてしまえば

無意識のなかに残る確かなものは何でしょう。

果たして無意識の世界という仮想はいるでしょうか。

フロイトと同時代からすでに疑念が呈されていたことは、上の引用からもわかります。

 

ξ

人間の心的な動きについて、精神分析のように意識・無意識のみから考えていくことは、現在ではいささか古風なものと考えられています。

人間の心的な現象を問うとき、もはや人間を構成する動物生、生命体の特質までさかのぼろうとする時代だからです。

 

思想家・加藤典洋氏の考察をヒントに、フロイトのような意識・無意識の世界から離れて、人間の心的な動きを動物生、生命体のレベルまで拡げてみれば

まず動物生は「意識(ビオス)と内臓系(ゾーエー)の構造物」とみなせます。*1

 

そこではビオス(頭)ではなくゾーエー(内臓)こそが、宇宙=外部と交感している。

他者とは、他の生物種であり、また宇宙なのである。

この相乗構造では、人間は、生命体という一階部分と意識=人間という二階部分とからなる建物である。

一階部分を、不随意でとらえることができないアメーバ状、二階部分を、随意、意志の力で何ともなるが、下方(=生命体)の作用を受けつつ、その作用の淵源には手をつけられない意識存在として生きている。

 

加藤典洋「リスクと贈与とよわい欲望」、『人類が永遠に続くのではないとしたら』所収、講談社学芸文庫、2024)

 

下等動物であれば意識部分が縮小し、高等動物になるほど意識部分は大きくなり、人間段階では生命体に対して意識体と呼びたいほどになります。

 

意識は、われ思う、ゆえにそれは確かに存在するものであり、こうして文字を書こうとするわれを自覚できます。

また内臓系器官は、不随意なものであれ実体であり、無意識を仮想する必要もなく、確かに存在するものです。

 

 

ξ

アバウトでは意識を、内臓系器官を身体とみなすことができると考えられます。

当然、意識は脳神経、表皮、感覚器官から成る体壁系と、内臓系の双方の身体と結びつくことから生まれます。

意識は大脳新皮質の機能に過ぎないでしょうが、それと結びついた身体の内部には、「その作用の淵源には手をつけられない」、生命体の歴史そのものといえる古く広大な作用を見ることができます。

 

そんな身体は社会規範とも倫理とも無関係ですから

とうてい心ですべて操作できるものではないこと

心の現象が身体からの声そのものと言ってもよいほどの影響を受けることがあり得ること

だからこそ、身体を社会的に存在させるためには、身体の「型」や「見なし」が不可欠であること

例えば「服を着る」とは身体を社会に存在可能なように制御することに他ならないこと *2

 

しかし一方、大脳新皮質を主座とする心は、古来、その「型」や「見なし」にを発見し、「着飾る」ことを創造し、清楚なから絢爛豪華なに至るまで現在も付け加え続けています。

ワタシは、抑圧された野放図な身体を、いつも解放しようとしている、人間の(フィクションを生み出してしまう)途方もない心にいまだ驚き続けています。*3