これは
の続きです。
ξ
いまだ薬から自由になっていないものの
猛烈に勉強したい、あるいは挑戦をしたい、と思えるステージにはいる。
それは現実に迫られているということもあるし、現実に喰らいついていこうとする意思でもある。
ある頃から、自分が回復するとは、もとに戻ることではない、以前とは異なる姿で再生することだと思うようになった。*1
(最近、あらためて観たアニメ『千と千尋の神隠し』(2001)ふうに言えば、いったん異界に行ってしまうと、父と母を助け出しありふれた日常に戻ってきたとしても、この世は、以前とは微妙に異なる別「世界」になっていた、という面白さにも似ている。)
現在の境遇はワタシの<資源>なのだと思うようになった。
それは、いつまで経っても続く心的不調、倦怠感、痛み、いくらか不自由な左足を抱えて嘆いていても仕方がない、というようなところに留まる理解ではないと思う。
いままで無関心だったり嫌悪して避けていた人々とのつながりも、実際には避けられないものとして必ずあった。
ワタシが鈍感でちっとも気付かなくとも、ワタシに好意的な人々とのつながりもあった。
それらの人々とのすべてのつながりは、本来、ワタシの大切な<資源>だったはずだ。
決しておろそかにやり過ごして良いものではなかった。
ξ
全身のこわばりや痛みや足の不自由のせいで、すべての動作は「どっこいしょ」から始まるといっていい。発病前には思いもしなかった事態だ。
たとえばたまたま電車で出会う若い男子のように、無造作にスッと座席に座ったり立ったり、きれいな立居振舞ができない。
スマホやバッグをかかえたまま滑らかに立ったり座ったりする動きを観ていると、あぁ、きれいだな、と思う。
自分はもうできない、と嘆くか、嘆かないか。
ワタシは自らの身体のこわばり、倦怠感、痛みは自分固有の<資源>なのだ、と思うようにした。
そうでなければゴルフの、関節に負荷のかからない打ち方を何年も考えたり試したりしない。
雲のむこう、約束の場所 劇場版予告編(90秒) - YouTube
ξ
同じようにワタシの心身の不調は、はるかに長期的な経過があったようであり、それは、自分とは何か、知るための力をつける<資源>である。
アニメ『雲の向こう、約束の場所』(2004)の主人公の少年少女は
自分だけが独り、「世界」から取り残されているのではないかという感覚にずっと苛まれている。
それは、生き生きと輝いていたいマジョリティであることを願う人々には
囚われても意味がない、取るに足らないものとして忘れてしまいたい感受性といえるだろう。
しかしマジョリティの正当な基準からすれば何らかの障害・疾患と紙一重だったかもしれない感受性を
病的な不健康さ、として跳ねつけられてしまうかもしれない感受性を
何か意味があるのではないかと静かに持ち続けることは自身の<資源>になるように思える。
このアニメの核となったように、である。
ワタシは、すべては必然である、過去はすべて善であるというようなタイプのスピリチュアリズムに組しない。
一個人からみれば偶然に過ぎない災害や事故が、必然であったり善であったりする倫理も論理もあり得ないからである。
しかし他者にくらべ、明らかに歪んだ空間のなかで歪んだ心身を持って生きているとき、そのことを<資源>とみなすことはできる。
ワタシたちの多くは偉人になることはできないが
偉人たちが決して順風満帆に生きてきたわけではないのに偉業を成し遂げワタシたちの記憶に残っているとすれば
その境遇に散らばるタネを<資源>として踏み出し障害を乗り越えてきたから、と考えたほうがよいのではないだろうか。*2 *3