※リウマチ関連記事なので、このブログにも転載しました。
ξ
2018年夏にCRPやMMP-3がパカンと上がって関節リウマチが再発(再燃)しました。*1
その後、だらだらとステロイドとメトトレキサートによる治療が続きましたが、今年2021年夏に再度休薬になりました。
投薬➡休薬➡投薬➡休薬➡・・・のサイクルの繰り返し、それによる投薬量の減少は好ましくもあり受容していますが、その休薬期間を少しでも長くできないか考えてみることは意味があります。*2
もちろん前回、過労や身体の酷使に心当たりがなかったので、日常の注意とか努力とかに関係なく再発(再燃)することもある、ということも覚悟はしています。
ξ
メトトレキサート休薬の経過を大雑把にまとめると次のようです。
【投薬1】2015年春
【休薬1】2017年春(2年3ヵ月服用)
【再発1】2018年夏(1年2か月休薬)
【投薬2】2019年秋、それまでステロイド(PSL)のみ、CRP順調に低下せず、小関節の腫脹・痛みが明瞭になったところでメトトレキサート開始
【休薬2】2021年夏(1年8ヵ月服用)
【再発2】 ??
【投薬3】 ??
まだ休薬後数か月ですが、前回以上の期間、休薬したいとは思っています。
ξ
【休薬1】の頃、新たな仕事の誘いがありました。
東京オリンピック前で大いに人手不足なことは知っていました。
しかし半徹夜もあるだろう、現場出張に明け暮れるだろう仕事スタイルは想像できました。
工程・工期に縛られ、またその管理責任が伴う以上やむを得ません。
発病前なら何も問題はなかったでしょう。
ワタシが倒れたら直ちに妻に迷惑をかけることになります。
結局、断りました。
その後、再発しました(【再発1】)。
仕事先に迷惑をかけることがなくホッとしたものの妻には迷惑をかけました。
やがてワタシの仕事に対する姿勢は、ある種穏やかさを持つようになりました。
もし抱えている日常が、過労や過度のストレスの原因とならないのであれば、いくらか嫌な業務であっても、規則正しい毎日をもたらすものとして受け容れたほうがいいと思う。
朝、布団をはねのけて起きたり、体調を何とか整えようと自制したり、栄養を考えた食事をしたりできるからである。
鬱屈していても11月の遊歩道の深呼吸
爽やかさや気持ちよさを感じられる程度に世界を赦せるのなら、毎日を受け入れてみる穏やかさを保てるはずだ。
人並みからの脱落を悲観して、あるいは仕事のつまらなさを悲観して、わざわざ世の中とのつながりを断ってはいけない、身体と心を「行使」して生きているワタシたちは、人とのつながりのなかで温和な日常を保っていることは、はっきりしているといえます。
ξ
病気から回復したり健康長寿のコツのひとつは、エッ?というほどシンプルなものです。
どのような層にいようと、身近なところ、それは人とつながっている空間にある、と言えそうなのです。
考え込んでも、結局、こういうところにワタシは落ち着いていきます。
孤独にキリッと口元を引き締めた生活上の諸注意や食事や健康食品や体操・訓練といったハウツーの羅列も結構ですが
また、診療室の医師が声を大に言うこともまず無いのですが
こういうところに本当は、休薬期間を拡げる知恵も潜んでいるはず、と思っています。
しかし多くの人は、ある種の怖れから口にしない、口にしたくないだけで、本当は、そんなことはわかっているとしか思えません。
TV健康番組で、寝たきりにならない優れた健康長寿の方法について
①人とのつながりを持つ、②世のため人のためによいことをする、③自分の好きなことをする、④運動、栄養
といったようなものから選択するクイズをやっていました。
老化は、関節リウマチ、多くの膠原病のように炎症が強く関係し、その炎症を減らすための最優先事項は、意外にも、人とのつながりを維持することにあるということでした。
世のため人のため黙ってゴミクズを拾うとか、自分の好きなことをするとかより、ずっと効果的な、人とのつながりの重要さが、健康長寿の方法として世界では「まとも」に研究されていたらしいのです。
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この、病気からの回復や健康長寿に有効な対策は・・・人とのつながりの回復・維持(=人とのつながりを楽しむ)こそもっとも本来的と考えられているのです。
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深呼吸して職場に出かけ、ヨコやウシロからの目線や声に
カリカリしたりドキドキしたりザワザワしたり
カリカリ、ドキドキ、ザワザワを夕方まで抱えて未解決のまま居酒屋になだれ込み
ついついその胸騒ぎのせいで酒をかっくらい、喋りすぎて酔いつぶれて前後不覚、どうやって家まで帰ったのかわからない、あーぁという生活をしていたとしても、ワタシたちは人とのつながりのなかで生きています。
やっちまったね、と思いながら生身の人とのつながりを生きています。
混んだ電車のなかで肩がぶつかりあったりすると
(実話ですが)「クソじじい」だの「クソおやじ」だの、聞こうと思えば聞こえる呪詛を呟いて、生身の周辺を嫌悪し遠ざけていく若者男女に出会います。
ぶつかった相手と「袖すり合うも・・・」なんて会話をしてみることはまず思いつかない。
そのくせ、スマホを握りしめ「つながり孤独」なんていう不安を噛みしめていたりする。
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「つながり孤独」、そんなチャチなカテゴリーに自分を沈潜させていたらもったいない。
どんなにありふれていても、切なくても
こういう生身の人とのつながりの先にしか、「つながり孤独」の恐怖を緩和する糸口はないのでは、と思っています。