たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。

障害者施設殺傷事件に思う

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ξ  

相模原市の事件について、唖然とする論説を見かけるので書きます。

8月20日(土)付毎日新聞に、「障害者施設殺傷事件と≪パルシファル≫」*1という、特別編集委員を名乗る者の記事が載った。

 

障害者は不幸を作ることしかできないから、安楽死できる世界を目標とするのだという容疑者の「手紙」のごく一部の記載を受けて

「・・・言葉を失う。今の私たちの社会があまりにも有用性の観点から生きる価値を決めているところを突かれ、これをどう実効性をもって否定できるのか、にわかには答えが出ない。」

というとんでもなくおバカな溜息をもらしている。

「寅さん」のおじちゃん(森川信)のように「バッカだねぇー、ほんとにバカだねー」とわめきたい気分だ。

 

ξ  

こういう前置きの後、今年のバイロイト音楽祭の演目「パルシファル」の話題に移る。

その演出は、頻発するテロの問題を核に据えているそうだ。

 

スコールのごとく日差しの中を光りきらめく雨が降りしきり、娘たちもクンドリーも誰もが雨を浴びて子供のようにはしゃぐ。

(中略)宗教の儀式に特化されずに、聖水の意味が伝わってきた。雨も聖水なのであろう。

雨はすべてに等しく降る。

自然にも、人にも。

生のすべてに等しく聖水がかけられる。

それは、生があることだけで、すべてが認められるということであろう。

これが答えなのか、と繰り返し自問した。

 

なんなんですか、これは!

聖水などというものが、キリスト教の特定宗派の儀式に過ぎず、世界にとって(キリスト教にとっても)なんら普遍性など持たないことは周知、世界中にバレバレなのに、この演出家が意味ありげに扱い、等しく人々に降りかかる雨に拡大させてみせたところで、いまさらどれほどの世界的意味があるというのだ。

 

振り返ってみよう。

こんな情緒自体が、ありふれたSFエンターテインメントとして、すでに世界中に蔓延しているではないか。

今までいくらでも観てきたでしょう。

例えば「風の谷のナウシカ」という古いアニメの、ラストのナウシカの浄化・再生のシーンでも

オームからの黄金色の生命素をナウシカにあまねく降らせ、宗教的な情緒をたっぷり醸し出してみせていたではないか。

 

こうした観客の終末願望、リセット願望に頼ったSFエンターテインメントは日本発かもしれないが、繰り返しSFコミック、戦争コミック、映画、アニメ、ゲームとして世界中に広くばらまかれてきたはずだ。

 

ごく最近、8月22日のリオ五輪閉会式の演出でも、最後に聖火の華やかな光線のなかに雨を降らせ浄化・鎮静の情緒を醸し出してみせた。

まったくありふれて陳腐、通俗的なものなのである。

 

もし「パルシファル」の演出家が、この編集委員が言う程度のレベルで意味ありげに演出したのなら、すでに蔓延しているコミック的エンターテインメントにくらべ格別高級な思想や情緒を表現したわけでもないので、ただのおバカであり、こんなことで持ちあげている編集委員は一層のおバカである。

 

逆にこんなありふれた演出の部分で、たいしたものだと誉められた演出家も全く気の毒だと思う。


ξ  

本当はこの件でおそろしいと思えるのは、この容疑者と編集委員のセンスは奇妙に共通していて、それは現実からの距離が隔たったまま共に佇んでいることだ。

フィクションに行ったまま現実に帰って来れない。

 

容疑者が「ヒットラーの思想が降りてきた」と口走ったとき、衆議院議長あて「手紙」を読んだ者ならそこらへんの戦争コミックに登場するキャラクターかなんかのセリフだろうと、一瞬にして気が付く。

まさか「わが闘争」を熟読した結果とは到底思えない。

 

僕は陰謀論的SF映画やコミックは嫌いではない。

ただし見終われば、さて明日は子供の誕生日、残業は無理だなとか、今から帰って親の食事を作らなければとか、パッと日常に切り替わるのがあたりまえだ。

 

「手紙」の中の容疑者は、幼児のように、放置されればいつまでたってもフィクションと現実が渾然としたまま切り換わらないでいるように読める。

フィクションから現実への切り換えができていない。

それは生活感覚の欠如ともいえるし、もっとはっきり知性の欠如ともいえる。

 

この編集委員も舞台劇の通俗的情緒の世界に行ったあとに、パチンと現実に戻って自らと他人と世界を律することができない。

居直り強盗の剣幕にすぎないものにオタオタして、「ごもっとも」などと下を向いて呟いているのだ。

この世で生きていく者にとってダメなものはダメなのだという生活感覚がない。

つまりはっきりいえば、この世を生きる強靭な知性がない。

 

エンターテインメントの情緒では「生があることだけで、すべてが認められるということであろう。」などと、マンガチックな、ひどく虚弱な世界しか見えてこないのだ。

だから、あたりまえでしょう、「これが答えなのか、と繰り返し自問した。」というオドオドする事態になる!

 

ξ  

今日(8/22)は、台風9号が昼間に関東に上陸するというので、子供を保育所にどうするか共稼ぎ家庭には前の晩からちょっとした覚悟が必要になる。

休園していないので預けられるが電車の具合によっては相当遅くなるか帰れなくなる心配がある。

そんなわけで結局、寝ぼけまなこの子供を車に押し込んで朝早くに実家に向かい、そのまま出勤するそうだ。

祖父母にとっては大行事、親にとっては大災難、子供にとっては避難所に緊急避難したような異常日だ。

リアル、リアル、リアルである。


容疑者は、政治的な革命を起こすわけでもなくファンタジーを現実に引き延ばすのにもっとも容易な無抵抗者を殺害するという選択をした。

幼児虐殺と同じように知的障害者という無抵抗な人々を襲う選択をした。

 

編集委員も陳腐なエンターテインメントの情緒で現実を説明しようとして、当然だらしなくオタオタ、口ごもるはめになった。

 

リアル、リアル、リアル以外は、オリンピック観戦同様、スイッチを切り替えて帰って来るべきファンタジーなのだと、フツーの人々はちゃんと知って暮らしているのに、と思う。