たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。

「人は見た目が100パーセント」と言って遊ぶ

f:id:yusakum:20170517212245p:plain

(写真は番組サイトから)

ξ

依存症とは人に依存できない病」(国立精神・神経医療センター 松本俊彦氏)だという。

他者という依存先が必要なのに、ある種の我慢強さ、完璧主義が他者の許容レベルを超えていると、他者と気持ちを分かち合えなくなる。

あるいは他者からの拒絶が本人の許容レベルを超えていると、他者と気持ちを分かち合えなくなる。

外部からは本人の苦悩は見えないので、友達からは、あの人は完璧主義だから、妥協しない人だからとあっさり匙を投げられる。

ところで本当は

間違っているのは友達の方だ、自分は友達とは違うのだと譲れないほどの強い主張を持っていたわけでもないのに

あれよあれよという間に自分が頑なに見えてしまったと感じられることがある。

依存先を失ったわけが

他者との考え方の相違のように筋だったものだったのか

自分の意思とは無関係に襲いかかってきた頑なさのせいなのか

よくわからないまま沈黙してしまうことがある。

自縄自縛のループと言ってみたくなる。まるで病のとば口に立っているかのようだ。

自分でもおかしいと思う、けれど自分はこうなってしまっているという自分自身からの猛烈な疎外感に気付くと

人ではない薬物やアルコールに理解を求めるようになる。

薬物やアルコールは自分を少しも非難しない。

 

ξ

時代の外部環境は、半分機械のようなアンドロイドのような同じ表情をした単一・一様な人間を求める。

そうでない人間を発達障害自閉症ほか)、適応障害、コミュニケーション障害といったレッテルを貼って排除し続けている。

例えば自閉症はここ30年間で約20倍に増えているという。人にとって外部環境は非常にタイトになっている。*1

その結果、単一・一様なアンドロイドの顔が満ち溢れることになる。

 

昼時に、丸の内から大手町に向けて歩いてみる。

首からぶらさげた家畜の識別票、手にしたスタバの紙カップ

磁石を置いたとき、単一・一様にパッと整列する砂鉄のようなアンドロイド。

 

「スキル」などというものにしがみつく者のアイデンティティは、病者・障害者・他のアンドロイドとの差異化以外にはない。

しかし驀進する人々ばかりではないだろう。

少なからずの数が、アルコール、向精神薬、過食・拒食、ギャンブル、近親者暴力その他に依存してバランスを取っているだろう、と思える。

僕がそうしてきたように、だ。

 

ξ

病者・障害者を排除していくときは、「不採用」とか「異動を命ずる」「社員を解く」といったように具体的だが

その減算後の解として現れる単一・一様なものの総体は

別に識別票をぶらさげてやってくるわけではないので極めてわかりにくい。

排除の論理はわかりやすいのに排除されない論理はきれいに把握できないので、いつも緊張と不安が伴う。

単一・一様な世界の構成は常に流動的であるから、加算要素(=首にならない果実)が固定的であるわけがない。

だから次々と加算要素を求めてただただ疲弊していくことがある。

 

ξ 

この苛立たしい単一・一様な世界をスケッチしようとしたとき

「人は見た目が100パーセント」あるいはこの世は美人が絶対得するようにできているといった

カンに障るような、直ちに反論されそうなセリフも、この世界からのものと気付く。

こういうものはギャグ化して笑いとばしたらいい。

 

木曜日10時のドラマ「人は見た目が100パーセント」

「女子力アップ」のために切り取った、ある時間幅、ある空間幅のパッチワークのようなエリアで外部環境自体を遊びまくっている。

おしゃれ・ファッションが強調されるべき単一・一様性に出遅れ取り残された時間に置かれた女子。

はからずも丸の内という違和感ばかりの巨大ビジネス空間の化粧品会社に置かれた女子。

こういう時間・空間のストレスフルな単一・一様性に合わせようと悪戦苦闘するギャグ・コントの連発に、笑いこけたり時々自分を重ねていたりする。

 

ξ

ヤセギスで細オモテの桐谷美玲は、地味でオクテの独身会社員にピッタシだ。

桐谷が、出勤のある朝、おそろしく早起きして髪の編み込みに挑戦したものの、通勤途上で壊れてしまい、なんとオフィス前の中庭で同じく出勤してきたあこがれの美容師に出会い、思わず落ち武者モドキの髪を隠すがすぐにバレてしまう。

その美容師は、信じられないことに美容室内ではなく朝の人通りのある中庭で彼女の編み込みを直し始めるのだ。

いったい桐谷

美容師の手指の動きと人目を感じながら、どのようにバフバフする鼓動を押さえていたのだろう、そして

二人(水川ブルゾン)の居る職場まで、卒倒もせずどのように歩いて行ったのだろう

とほほえましくなる。

この純情っぷりには、絶妙のタイミングで流れてくるJYの歌う主題歌が実に効いている。

 

ξ

さて、編み込みを直されあらわれた桐谷に、水川ブルゾンはオッ!となる。

それはつい

プラダを着た悪魔(2006)の

野暮ったかったアン・ハサウェイのように

徐々にオッ!と洗練・変身していくシーンを予感してみたくなる。

(丸の内研究センター長(鈴木浩介)の風貌も「プラダを着た悪魔」のスタンリー・トゥッチのようで楽しい)

 

以前この時間帯で放送されていた「嫌われる勇気」同様、視聴率はパッとしないようだが

桐谷たちが果たして洗練・変身していくのか

まさかアン・ハサウェイのように毅然とした結末を迎えたりするのか

といった身勝手な空想もあって

結局、木曜日の寝るまでの時間こうして過ごしている。