たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年初めに不明熱で入院、急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつドラッグフリー寛解から実質完治を目指しています。

大人になること、子どもでなくなること  その2/4

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3.マイノリティのなかで「子どもでなくなること」と 希望

今のところ、「大人」・「子ども」・「マジョリティ」・「マイノリティ」・「成長」などの言葉について、僕はその定義をはっきりさせないまま用いている。

拙く定義すると、言葉は妙に痩せ細ってしまうことがある。

脚注書『敗者の想像力』*1でも、「勝者」・「敗者」・「強者」・「弱者」・「成長」などについて、その定義に係る記述はあまり見当たらない。しかし、その言葉によって喚起される意味、イメージは、ある幅を持ってだが比較的明快に理解できる。

 

同書では、手塚治虫を、強烈な敗戦体験を踏まえた敗者の漫画家として紹介する。

ところが後継者である宮崎駿は、手塚治虫に「ディズニー式」の強者・勝者の手法をみて、性に合わず袂を分かった。

 こうして『千と千尋の神隠し』のような、敗者としての想像力を発揮したアンチ「ディズニー式」のアニメをつくるようになる。

手塚は弱者・敗者のようであり強者・勝者のようでもある。

勝者、敗者は、他者や社会との関係性によって動いていく。

勝者、敗者は、静的にきれいに仕分けされ壁にピン止めできるようなものでもないのだと思える。

 

 ξ

同書のなかで「大人になること」の例として、『小鹿物語』が挙げられている。

物語では、可愛がっていた小鹿が成長し、畑を荒らすようになったころ、小鹿を撃ち殺さなければならなくなる。

そこでは、自分が可愛がり、育んできたものを、撃ち殺すことが大人になるということ、成長することとされる。

それは、子ども達への、一刻も早く、試練に遭い、大人になれという急きたてであり

子どもから見れば大いなる抑圧ともなる成長観に立つ、極めて近代的な成長の範型、「ディズニー式の成長」と説明されている。

 

一方、「子どもでなくなること」の例として、西原恵理子の漫画『ぼくんち』(1998)を挙げる。それは次のようなストーリーである。

 そこには二人の兄弟、一太とその弟、二太が出てくる。

 

一太は、売春などもして二人を育てるかのこ姉さんを助けようと、一日も早く大人になろうとし、不良仲間に入り、トルエン密売などに精を出す。

 

兄貴分に殴られ、足蹴にされても歯を食いしばって、がんばる。

 

そして最後、行方不明になるのだが、残された弟の二太は、気がつくと、自分がもう子どもではいられないことを知り、別の仕方で、子どもではなくなることを受け入れる。

 

一人、かのこ姉さんとも別れ、よそから小さな船でやってきたおじいさんにもらわれて町を出ていく。

 

甲板のうえに立っていると、やがて自分の町が見えなくなる。

 

寒いからなかに入れ、とおじいさんに言われると、二太は言う。

 

「じいちゃん。ぼく知ってんで」

そう言い、ふり返り、

「こういう時は笑うんや」

 

そして漫画は、この二太の振り返った笑顔で終わる。

(脚注書186ページ)

 

  ξ

二太がニッコリ笑ったところで、マジョリティの世界は別に変わったりしない。

変わったのは、二太の心、二太がたくましく成長した、子どもでなくなったというような心である。*2

このときいったい何が起こったことになるのだろうか。

 

心的な成長に伴う安堵、喜び、新たな気力による高揚は

ヒトの生物的自然が発熱、炎症、痛みを起こさせたあと

病気から徐々に「回復」していくときに抱く

安堵、喜び、新たな気力といった感情にそっくりだ。

こうしてヒトはさらに「回復」を目指すことができる。

思わず生物的自然と言ってみたくなる、湧き上がる成長の衝動も多くのヒトにとって避けられないものではないか。

 

  ξ

「こういう時は笑うんや」

という二太の決めゼリフは、オヤッというほど古風な感じがする。

昔から庶民が馴染んできた生きる知恵のようである。

 

僕が、社会人になってから、ただの一度もカラオケで歌う歌では無かったものの

少年時代、ガキどもが集まれば、皆大声でがなり立てることができた

村田英雄『王将』の

 うまれ浪花の八百八橋

 月も知ってる俺らの意気地

のように古風である。

 

 マジョリティから外れた敗者・弱者が

①テロやテロまがいに走ること

あるいは

②必要のない無力感にうちひしがれること

という2つの悲惨*3から免れるよう

「子どもでなくなる」とは

揺るがぬ「泰山」を、負けるもんか!と、マルかバツか切羽詰まった対象に置くのではなく

そびえる「泰山」と自分が、常に接触し続ける境界面で

マジョリティの規範、その大義、正義、理想、正統性、価値観に

 

「こういう時は笑うんや」

「月も知ってる俺らの意気地」

「将棋の駒に賭けた命を笑わば笑え」と

 

ワタシの「正しさ」を、何度も何度も代置していくことではないか。

これはマジョリティの受容という「大人になること」と全く別の「子どもでなくなること」の実行である。

自分自身による、この不敵な代置行為の蓄積を成長のアカシというのではないか。

 

成長を希求して  

無意味に屈折して陥った自虐・自責の念から免れ、何もかもが自分のせいではないのだと気づいたときに

視えたもの!へ歩きだすヒトが必ずいる。

その「回復」の過程で

止めたい、もう降りたい、てんで駄目だと毎日ため息をついていても

アンタは強いね、と

ヒトから言われて気付くような粘り強さを

(まるで逆境期の偉人のように)

すでに持ち合わせていることがある。

これを成長以外に、何と呼べるだろう。

 

 

 

 

《追記》

皆さまにとって、2018年も、2018年こそ、よい年でありますように!

 

 

 

*1:「『成長』なんて怖くない―宮崎駿手塚治虫」、加藤典洋『敗者の想像力』第6章、集英社新書、2017

*2:僕がまだ原作を読まず、もっぱら引用したサマリーに依存して考えていることをご容赦ください。

*3:参考:脚注書184ページ