これは
の続きです。
4.「なにものか」でなくてもよい場所
大阪で「なるにわ」という活動をしているNPO法人がある。
その活動の趣意は次のようである。
いまの世の中、なんだか、みんなが値踏みされてます。
学校に値踏みされ、会社に値踏みされ、親からも値踏みされ、友だち関係においてさえ、おたがいに値踏みしあっている。
多くの人が「なにものか」でなければならないと自分を追い立てつづけ、そのことに疲れ果てている。そんな感じがします。
なんだか、ヘンです。「なにものか」でなくても、人が居られる場所をつくりたい。(中略)
「なにものか」レースにうんざりして、道をちょこっとでも外れると、たちまち「不登校」「ひきこもり」「ニート」「発達障害」などなど、専門家を名乗る人たちから、自分が望んだわけでもない名前がつけられてしまいます。
世間には、さまざまな名前で私たちを分類し、区分しようとする動きがあります。
けれども、その名指しに、自分自身を乗っ取られてはいけない。
自分ではない誰かが貼り付けていった名詞を、みずからの代名詞にする必要なんてないのです。
そんな名前を返上して、人と人が出会う場所。なるにわは、そんな場所であってくれたらいいなと思います。
(中略)
きっと、いまの世の中では、「なるようになる」という生きものとしての流れを無視して、無理やり「なにものか」になろうとするからしんどいのでしょう。
では、なるにわでは、どうなのか。ここでは、「何になっても、ならなくてもいい」と思っています。
土壌の部分だけはゆるやかに共有し、そこに根がはられ、芽が出たならば、枝葉は各々が思うように、自由に伸ばしていけばいい。
方向性なんて、てんでばらばらでかまわないのです。
ξ
この活動に参加している若者が「再生」していくプロセスを検討した報文を読んだ。*1
そのうちAさん、26才、女性の事例は次のようなものである。
(このNPO法人には様々な活動があるので、「生きづらさからの当事者研究会」をはじめ、すべての活動をここでは研究会という呼び方にまとめて話をすすめるようにします)
Aさんは、9歳の時、不登校になって以来、あまり学校に行くことなく過ごしてきた。
10代のAさんが家に閉じこもっていた2000年代、マスメディアにはひきこもりやニートを巡るバッシング報道があふれていた。
Aさんは「どうして自分はこんなにダメなのだろう」、「生産性がないから生きているのが申し訳ない」と自己否定感に苛まれる一方、働くことの恐怖を感じていた。
働くとは、サラリーマンの父親のように朝早く出勤して夜中に帰ってくるイメージであり、まるで機械になるよう迫られてる感じがした。
本を読んだり文章を書いたりしているときだけ気持ちが落ち着いた。
それでも19歳の頃、最初は郵便局で、次にショッピングセンターの清掃員としてアルバイトをはじめた。
しかし、郵便局では、他の高校生アルバイトとの関係になじめず辞め、清掃の仕事も、口頭で指示を受けながらてきぱきと動けず、「右と左が分からなくなる」ほど混乱して2週間で終わった。
これらの経験は、Aさんの自己否定感や仕事への恐怖感に拍車をかけ、引きこもりがちな生活が続くことになった。
ξ
僕には現場マネージャーやリーダーの「チッ!」という舌打ちが聞こえてきそうである。
「はずれくじ! はやく辞めてくんねえかなぁ」
正社員であるなら、産業医との面談やら療養休暇制度の適用やらを人事部門が考えるかもしれない。短期アルバイトでは到底考えられない。
なによりも同僚たちの
右も左も分からなくなったときの
「なんなの、あのヒト!」
というささやき声が僕の耳元でワッと聞こえてくる。
ほとんどこれには耐えきれない。僕は辞めたくなる。
ξ
やがてAさんは、新しい人間関係がほしいと思い、ネットで見つけた研究会に参加するようになった。
支援者がいてあれこれ世話をやいてくれる場なのでは、という最初の想像とは異なり、誰もがんばって助けようとはしない雰囲気だった。
ここにいると息がしやすいと感じたAさんは継続的に通うようになった。
そして自分の生きづらさの意味を仲間と探究するようになった。
そのテーマは「怒りについて」「自分について書くということ」「女性と生きづらさ」などである。
この参加経験からAさんは次のようにインタビューに答えている。
初期の頃は、自分のせいだと思っていたんです。
生きづらいのは全部自分が原因だと。
でも、研究会に関わったり、社会学の言葉を学ぶうちに、本当は自分は悪くないんだなって思えた。
社会的な問題というか。本を読んだり人の発表を聞いたりして、構造的なものなんだなって、自己責任から移っていった。
この仕組みじゃ苦しいと思ってしまう人はいっぱいいるよなって。
学校に行かなかったのも、自分が悪いと思っていたんですけど、(中略)それを治して適応するよりも、どういう社会だったら自分が生きていけるか探すほうが、私には楽。生きているって実感がある。
私けっこう、人生ずっと考えてばっかりで。しんどかったりつらかったりするけど、それも含めて生きるということだし。
単純に許容範囲が広がったのかな。
許せるようになった。自分のことを。
それは大きいかなって気がしますね。
(脚注報文)
ξ
この活動のなかで、仕事は怖いという気持ちは続いていたが、他方で、自分にあった仕事は何か、どうやってしんどさをコントロールするか考えるようになった。
二五歳になった頃、Aさんは再び郵便局のアルバイトをした。
しんどさは相変わらずだったが、このときは決められた期間働き続けることができた。
苦手な履歴書を書いているAさんが「やりたくない! 字が曲がった!」などと騒げば、
研究会には、「大丈夫だよ」「休憩したら」とフォローしてくれる仲間がいた。
面接に行くときには「時間が守れてあいさつができれば雇ってくれるから」と周囲が励ましてくれた。
(脚注報文)
この報文のなかで、もっとも感動的な部分であり、僕はこの段落を何度も読み返してしまう。
Aさんはまったく等身大である。自分を押し殺すことなく騒いでいる。
仲間に、口をへの字にして、そんなことでどうする、というヒトもいない。
この研究会の雰囲気が実によく伝わってくる。こんな場にAさんはいる。
しかし僕が感動したのは、むしろ
この社会の仕組みじゃ苦しい、おかしい、とわかっていても
ハスに構えて敵対したりあるいは打ちひしがれたりするのではなく
ああ、ヤダ、ヤダ、と思いながら社会に自らを差し込んでいく動的な心をちゃんと持っていること、その自然な思い決めについてだったと思う。
やがて、学校にいかず書物から学んで育ったAさんは、「自分も文章を書きたい、書く仕事がしたい」という夢を思うようになる。
研究会を取材にきたコミュニティ新聞への連載記事の仕事をきっかけに、自分自身の経験や内面に関することから広く社会につながりがあるものも書いていきたいと、思いが広がっていったという。
ξ
もう一人の事例Bさん、27歳、男性は、十代の頃、「自己臭恐怖」に悩まされ、次第に悪化して高校を中退、やがて「宇宙の真理を探究せよ」という幻聴に取りつかれ、苦しい思いのなか、憑かれたように本を読みふけった。
研究会でのBさんの発表テーマは、「父親との関係」「病気のこと」などであり、自分をずっと支配していた「宇宙の真理を探せ」という強迫は、「愛され、かわいがられなかったことの代わり」だったと分析するようになった。
暴力的だった父親については「家族を養うために働いてきた一人の男性」であるとみなすようになった。
著者の事例選択に偏りがあるのか、多くの仲間の傾向なのかはわからないが
二人とも①よく読み書く習慣があったこと(研究会でも発表のためのレポートを書くことが必須)、②強い内省力があったことは共通していたように思える。
そして、支援者/被支援者という効果・効率を問う構造が一切ない、そのテーマを巡る語りや仲間に耳を澄ます経験が、Aさん、Bさんそれぞれに、はっきり転機、転換点をもたらしている。
大切なのは、他者とのつながりが回復されていくことによって、否定的に見られていた過去のつらい経験の意味が変わっていく(=再定義される)という意外なプロセスである。
ヒトが社会から漏れ落ちるとき、集団的抵抗が困難なままバラバラと個人化して落ちていく(Beck、1994)そうだが
モダンの求める目標設定などというものを著しく希薄にした、きわめて内省的な交流、対話、信頼、親愛による共同体から「再生」していくという可能性にはワクワクする。
こういう、人間性の仕組みについて思うとなんかヒトが愛しくなる。*2