これは
の続きです。
5.「大人になること」への慰藉について
90年代に誕生し、高校やら大学に進学でき何とか就活や就職までこぎつけられた若者は幸運だ。
バブル崩壊以降、リストラが日常化し、勝ち組、負け組という区分も流行した。
勝ち組講座という有償の自己啓発セミナーまであった。(僕は参加した。しかし結局、自分の道は自分で切り開かなければならないと分かった以上に得るものはなかった)
アナタの親はどんな方法であれ生き残ったのだ。
負け組になっても這い上がったのだ。
もちろん時流に乗ってとてつもない富裕層になった人々もいる。
彼らの子供は、暗~い平成の30年を、あふれるモノやバーチャルやアメニティの華やかな消費の時代として満喫しただろう。
それは実はバブルの時代よりずっと洗練され豪華なものだった。
一方、アナタの父親は、慇懃無礼、ヘラヘラした「コミュニケーション能力」ばかりに長け、首がつながることだけで精一杯、家ではむっつり会話など不可能な人物になっているかもしれない。
母親は、ひたすら貧困転落恐怖におびえて夫にすがりついたり𠮟咤したり、アナタの顔を見れば超現実的な小言をガミガミ言い続けたかもしれない。
しかし外から吹きつける家庭崩壊の風に耐え、暮らしを維持してきたのだ。
いま、家族の連帯は混沌とし子供たちが命の危険にさらされていることを常に想定しておく時代に
高校や大学に教育費を負担して行かせたのなら、アナタが常日頃、言葉にせずにはいられないほど頭のオカシな親であっても、その生活力はたいしたものだと言わざるを得ない。
ξ
いくらか贅沢を言わせてもらえば
僕らは様々な価値観(小共同体の規範、善悪、嗜好、親愛など)を、安堵の参照軸として幼児のときからそれとなく身につけておきたいのだ。
そうでなければその参照軸は、社会にほっぽり出されたあと、長い時間をかけて自分自身で見つけていくことになる。
しかしその途上では、どこまで行っても安心できる終着点に自信がないので、心身を酷使した完ぺき主義のような危うい泥沼にはまりそうになる。
本来、自分の体験史を無条件に肯定、信頼して成長したいのだ。
世の中を知るにつれ、そうか、僕の体験、記憶はちょっと修正がいるな、と気付いて抵抗も不安もなく歩めたらどんなに幸福だろう。
生活のための規範、善悪、嗜好、親愛などの標準を、安堵の参照軸として、人生最初の依存先(親)との穏やかなやりとりのなかで身につけ成長できたら、変化への耐久力というものは相当大きくなる(怖くない!)だろうと思える。
ξ
正月3日に、『君の名は。』という2年前の人気アニメをテレビで観た。
決して交わらない時間差にいる男女の恋、男子と女子の身体の入れ代り、過去を作り直すことによる未来の変更、記憶の喪失、初恋のヒトとの劇的な再会といった、ありふれたファンタジーの筋立てにたっぷり依存し、十代の初々しく伸びやかなエロスをふんだんにふりまきながら物語は走り抜ける。
実際、ラストシーンに至るまで主人公たちの走るシーンが、このトレンディ・ドラマを高揚させていた。
偶然のいたずらにみえる強引な再会は、「エーッ!」「ウッソー!」の、たけしのアンビリバボーの世界だが
それでも、ついこの録画を見直してしまうのは、エンディング間近の、瀧くんのセリフ
「今は、もうない、町の風景に、なぜこれほど心を締め付けられるのだろう」
「ずっと、何かを、誰かを探しているような気がする」
という解決のつかない焦燥に苛まれているシーンが胸を突くからだ。
東京のどこかで
瀧くんも、みつは(のちに再会する恋人)も
ふとした時に
右の手のひらをじっと眺めてしまうシーンが差し込まれる。
手のひらを眺めると何が解決するのか二人にはわからない。
もう、出会うしかないでしょう?
と言いたげなシーンだ。
ξ
「ずっと、何かを、誰かを探しているような気がする」
というのは「大人」になろうとしている、「大人」になり切れない若者固有の感情だろうか。
「ケッ!」と吐き捨てるように、そうした思いをアオいもの、幼稚なものとして排除していくのが「大人」なのだろうか。
あるいは、打ち捨てることはできなくとも折り畳んで仕舞い込み、まともには浮かび上がらせない心性を身に付けるのが「大人になること」なのだろうか。
そうではなく
この何を探しているのか、誰を探しているのか、という不安や焦燥を、そのまま抱え続けてもいいじゃないかと思い決めてしまったらどうなるだろう。
それらが不意に湧き上がってたじろいても構わない、と思い決めてしまったらどうなるだろう。
感性の際立った作家、漫画家でないからといって
こういう問いに
スカスカ粗鬆のポップ・スキルで
「大人」らしく、スルーを気取ってみる必要もないのだ。
ξ
かつて、瀧くんのように慎ましく就活し
晴れて新入社員になったとき
「就職が決まって 髪を切ってきたとき」
「もう若くないさと 君に言い訳」
したヒトたちは、すでに出先のラインにいて
猛烈サラリーマン、企業戦士、社畜としてギラギラ声を張り上げていた。
高度成長はとっくに終わっていたのに、時代遅れのプロジェクトXを演じて、のちのパワハラの土壌づくりに励んでいた。
このヒトたちがくぐりぬけた大学紛争の時代に
きっと持ち合わせていた(だろう)はずの
「ずっと、何かを、誰かを探しているような気がする」
という不安や焦燥はどこにいってしまったのだろう。
「もう若くないさ」と
ウルトラマンの掛け声よろしく「大人」に変身してしまうポップ・スキルは
真似できない、僕にはないかもしれない、人種がちがうかもしれないと次第に思うようになった。
このヒトたちの安堵の参照軸は何なのだろう。
身近に見て想像するに、規範への過剰適応で対処しているように思える。
規範はそこまで要求していないのに部下に「給料泥棒!」と怒鳴ってみたり、規範に過剰に寄り添うことで安心を確保しているようにみえる。
よく観察すると、ドヤす相手は選ばれているようにみえる。
半沢直樹のように決して倍返しはされない相手のようにみえる。
とすればこの職務権限の行使はそもそも不公正で不当なことになる。
それは安堵の参照軸が体内に見つからない不安のせいのようである。
ξ
どのみち僕らはマジョリティのなかでは、ある程度は「大人になること」を避けられない。
ヤンチャだけで過ごすわけにもいかない。
『ブレードランナー*1』(1982)であるデッカードが、黙々と殺し続けたレプリカント(アンドロイド)のひとりロイの逆襲についに敗れたとき、ロイについて独白するシーンがある。
「彼は自分のことを知りたがった。 “どこから来て どこに行くのか” “何年生きるのか” 人間も同じなのだ。」
これと
「ずっと、何かを、誰かを探しているような気がする」
という感覚は
入れ替えても何の矛盾もない同質の、「答え」を探し続けている不安であり焦燥であるように思える。
人間デッカードにとって、その「答え」は何と!レプリカントである恋人レイチェルとの逃避行であった。
デッカードはラストシーンで、規範、使命をわきまえた「大人」の選択をしない。
ワタシの「正しさ」を実行する。
ただ追手が来ないことを願うしか救いはないのに、である。
「敗者」の行動力とでも言ってみたい気がする。
ξ
僕らは「大人になること」が苛烈であればあるほど慰藉を欲する。
慰藉を規範への過剰適応のなかで確保すべきではないとすれば
何を探しているのか、誰を探しているのか、という不安や焦燥を、一生抱えてユラユラ生きてもいいじゃないかと
捨て切れないものが不意に湧き上がったらどうする? という不安や怖れにたじろいてもいいじゃないかと
僕らを慰藉する選択肢の幅を残し続ける道もある。
その幅を持つこと自体が慰謝になったりする。
デッカードが、「大人」の選択を捨てた時、新たに
限られた命を大事にしろというメッセージを感じることができ、レイチェルの命を選ぶ価値を確信できたように。
これは悪くない。