たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に不明熱で入院、急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。

「教育」から、逃がせ子供を!

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NHK NEWS WEBから

ξ

かつて、子ども(男子)が幼稚園に入って、しばらくシュンとして帰る日が続いた。

人生最初の他者(=親)と築いた人間関係では、王様のように君臨して過ごせたのに新しい小共同体では通じなかった。

子どもは、新たな小共同体で「先生」や「お友達」と呼ばれる人々との関係の結び方に挫折して再構築を迫られることになった。

もう親は子どもを幼稚園に預けた時点で、この挫折と再構築の仕方にほとんど立ち入ることができない。

帰ってきた時、元気があるか、声が弾んでいるかといった「外形」で様子を見守るしかない。

子どもなりに神経をすり減らしている。

けれど子どもは自分で挫折を処理し再構築していく以外にない。

小共同体は次第に拡大し、社会人になっても、環境やヒトとの関係の結び方において挫折や再構築が繰り返されていく。

つまり社会のは不可避的にやってくる。

そのたび、家族は子どもの休息と修復の居場所であり続ける。

昔、僕が社会に出て初めて帰省した時、どこに出かけるでもなくひたすら眠りこけて過ごしたように。

家族は本来、少しも力むことなく、社会のを緩和できたり、それへの抵抗力を回復できる居場所になりえる。

 

ξ

東京都中央区立の泰明小学校が、高級ブランドであるアルマーニの高額の制服(非強制の標準服と呼ぶ)を採用することについて

その決定手順の不手際もあって、テレビのニュースになるほど大きな話題になっている。

 

泰明小学校は、ごくたまに会食などで銀座にいくとき

僕にとっては夜の目印の、通り過ぎるだけの小学校だが

私立や国立じゃあるまいし、僕の子どもの通った別区の公立小学校と特に違いがあるとも思わなかった。

 

女優・石田ひかりが、芸能人らしく慎重な言い回しながら

価格が高いとか安いとかが問題ではない、ひとつのブランドでなくいろいろなものを着せるのが本当の「服育」ではないかと真っ当な意見を述べ

そのInstagramが盛り上がっている。

 

www.nikkansports.com

www.hochi.co.jp

石田ひかりさんはInstagramを利用しています:「はちまんえん、という 価格ばかりが議論されてますが 論点まったくずれてると思います 某大臣まで、にやにやしながら 一人だけ買えないとなると、それはまた問題かなと思いますが とかなんとかおっしゃっていて 本当にたまげました そーゆーことぢゃないよね‼️‼️‼️‼️…」

 

しかし予想どおり

女優・石田ひかりの「心無い発言が、小学校の児童・保護者(=被害者)を傷つけています」という

制服の価格がいくらであろうが何ら問題にならない経済的強者のくせに

まるで弱者のように仮装した反発が現れるようになって僕はムカッとし

東京に転勤後、別区だが公立小学校に通わせた親としての関心もあって

報道記事を読み直していた。

本当に金銭に苦労している弱者に寄り添う気なら

まずは制服代を無償にするか、制服を廃止するかに動くのが正しい。

 

ξ

報道を頼りに考える限り、そもそもは価格問題という当事者間の実務的な話に過ぎない。

変更した制服の価格を、もし現行の半分に下げるというのなら問題など起こりようがないからだ。

 

教育委員会

保護者からの批判を受け、昨年11月にアルマーニの制服導入をやめることができないか探っていたという。

そして教育委員会担当課長は

制服の変更は、保護者などの了解を得て進めるのが本来のあるべき姿で、校長にそう指導してきたが、教育委員会としてチェックが十分でなかった、保護者などから十分理解が得られない状況が生まれたことは残念だと述べた(2018.2.8付NHK NEWS WEB)

とのことである。

こういう経過からみて、制服変更の価格が高いと一部保護者から批判が起きていたものの

年が明け2月になっても撤回されていないのだから、批判側が少数であったことがうかがえる。

 

校長は記者会見で次のように述べたという。

 

高額で購入できない家庭については「個別に相談させていただきたい」とし、公的な援助の手続き方法などを周知するという。

 ・・・

高額だが「本校の児童のご家庭なら、出せるんじゃないかと思う」と話した。購入できない家庭が出た場合、その児童を「バカにしたりしないよう(他の児童に)徹底したい」と話した。

・・・

購入が難しい家庭には「入学準備金の制度や就学援助の制度を情報提供する。あとは類似品とか。解決できると思っている」。アルマーニ製の制服は「標準服」で、着用は義務ではないが、着用しない児童に対しては「嫌な思いをしたら、教員に伝えて」と指導するとともに、徐々にそろえるよう求めていくという。(前掲記事)

  

 購入できない家庭の児童を「バカにしたりしないよう(他の児童に)徹底したい」とか

「嫌な思いをしたら、教員に伝えて」と着用しない児童に指導するとか言われて

ご配慮ありがとうございますと、感謝するようなノーテンキな保護者が、本当にいると思っているのだろうか。

 

なぜ校長がこのような通用しそうもない言い草に自信があるのかといえば

多数は反対していない、「ほとんどが採寸に来ている」という事実があるからだろう。

だから批判側には「個別相談」や「類似品」で対処可能と考えているからであろう。

 

気になるのは、学校側の姿勢がどうあれ

制服受入側の児童・保護者らによって、入学しても着用しない批判側児童はリストアップされ「区別」されるだろうことである。

6年間、その「区別」に耐えられるだろうか。

 

そうなると保護者はいままでの2倍以上になる制服(価格表から年当たり費用を概算することができる)を

子どもの成長にあわせ次々新調していく選択を無理して受け容れるかもしれない。

あるいは他区の小学校に異動する手続きを踏むかもしれない。

 

中央区は学区制で通学する公立校は指定されているので、区教育委員会は保護者と「議論を尽くして対応を検討するよう指導する」と言っており

この教育委員会、泰明小学校、そこに通学しようとする児童・保護者の問題として解決するほかはない。

解決の方法や結果に、当事者以外の者が介入できない。

僕は僕の関心を、この「事件」を契機に考えていくだけだ。

 

ξ 

僕は最寄区域外の小学校に子どもを通わせた。

当時、具体的にどういう制度だったかは忘れたが、小学校は選択でき、子供が通学可能かどうかだけ考えればよかったのである。

(現在の東京都のHPによれば、17区中、小学校の指定校制を採用しているのは中央区を含め5区に過ぎない。他区は隣接区域選択制、区内自由選択制を採用している。)

 

僕は住宅地に住んでいなかったせいか、最寄りの小学校はひどく少人数だった。

全校の運動会、学芸会、文化展など冴えないなぁという気持ちと

もし友達に恵まれなかったら、教師に恵まれなかったら、という子どもが親を選べないことに似た境遇を

学校には行ってまで引きずるのはよくないという思いがあったのである。

金持ちも貧乏人もいる

頭の良い子も悪い子もいる

身体の大きな子も小さな子もいる

運動の好きな子も嫌いな子もいる

この友達がだめなら次の友達がいる

この教師がだめなら次の教師がいる

このクラスがだめなら次のクラスがある

そして競争相手もたくさんいる

というような環境の大きな幅のなかで

ワイワイガヤガヤと過ごしたほうがよいと思ったのである。

 

教育には必ず押し付け、強制のが伴う。

そのため教育環境、理念の幅を狭くすればするほどが回るのだ。

いま振り返ってみると

そのが避けられないのなら、せめて希釈するよう逃がすのが

「孟母」のような引越しや高額な教育費負担など耐えられないサラリーマンの

ごく控えめな教育の試みだった。

 

ξ

銀座の街のブランドと泰明ブランドが合わさったときに、もしかしたら、潜在意識として、学校と子供らと、街が一体化するのではないかと、また銀座にある学校らしさも生まれるのではないかと考え、アルマーニ社のデザインによる標準服への移行を決めました。

 ・・・・

そうした国際色の強いエリアに立つ小学校として、地域に根差し、さらには国際的な視野を持つ人材を育てていきたいという思いをもってまいりました。標準服とは児童が毎日着るものです。そうした身近なアイテムだからこそ、それを通してきちんと装う事の大切さを感じることも、国際感覚の醸成に繫がると思います。

(2017.11.17付保護者向け「平成30年度からの標準服の変更について」)

 

なぜアルマーニ監修の標準服に? 泰明小校長は、こう保護者に説明した(全文)

 

ここでは、銀座にいて、アルマーニの制服を毎日着ていると

街との一体化、装うことの大切さ、国際感覚の醸成に繋がるという教育理念が主張されている。

報道の読者の批判的な意見は、価格問題を除けば

銀座にいてアルマーニの制服を着ることと

「服育」効果が生じたり国際感覚が醸成されることとに

なにか因果関係があるのかという点に集中している。

 

しかしそれ以上に

子どもは未熟な大人として成熟した社会から教育されるべきもの

未完成のアンドロイドとして訓練されるべきものであり*1

そのための選択幅の恐ろしく狭い回路が、(ひょっとしたら保護者自身にも)として信仰され、子どもに強要されていること

が問題であるように思える。

 

戦後最大のベストセラーらしい『トットちゃん』(1981)の

制約の感じられない反管理のトモエ学園のような小学校をいまさら思い描いてもファンタジーかもしれないし

こう言ったところで教育理念の主流にはなることもなく、また声高に主張するような立場にもいないので

先鋭化していく教育のをいかに希釈して子どもを逃がすかに

子どもが社会人になった今でも僕は関心を抱いている。