これは
拡張する心、自分を「他者」として切り分けること 【断章2/4】
の続きです。
ξ
覆面強盗のように花粉症の完全武装をして、霊園に行ってきた。
まだ歩くのがおぼつかない幼児と手をつなぎ、花と手桶を抱えた若い夫婦に何組か出会った。
彼らが子供の頃、可愛がってくれたジイチャン、バアチャンの墓参りだろうか。
それとも、こんなに孫が小さいのに他界してしまった父、母の墓参りだろうか。
父、母は孫を抱けただろうか、それとも孫の顔を知らぬまま他界したのだろうか。
身近な人が突然いなくなってしまうのと、予告されゆっくり亡くなっていくのと、どちらが衝撃が大きいだろうと考えたことがあった。
災害や事故で突然いなくなってしまい、生き残った者との関係がいきなり切断される理不尽な物語を、世間は好む。
あぁ、嫌だと思う。
どのような死の衝撃だって、忘れようとする心の指向、いずれ時間が解決するだろうという心の傾向を頼りにしなければ身が持たない。
そしていつか安堵のイベントがやってくると待つしかないと思う。
僕は辛うじて父母に初孫を見せることができた。
もちろんこの安堵は父母のものではなく
僕がマジョリティの世界にわずかに参画できたという全くシンプルな、僕の安堵だ。
突然いなくなった母や父の年齢に、やがて僕が達した時、また新たな開放感(=安堵)があるかもしれない。
それが次のイベントだと思って待っている。
この彼岸も、雑草を抜き、墓石を洗い、花と水を供え、線香を焚き、写真に収めた。
すでに世界水準のなかで暮らしている
治療手段に結びつけなければならない関係である医師対患者のみならず、実際には、どんな場面でも自分の切り分けは行われている。
僕のような賃労働者にわかりやすい外部環境をみると
ネオリベ・ルールと言ってよい世界水準を要求された先端的な企業体と個人の姿がある。
2000年代に入っての金融立国宣言がその典型であり、企業体のガバナンス強化がどんどん言われだした。
上場企業の会計基準や情報開示ルールが大きく変更・拡大されたり、その他伝統的でバラバラな社内ルールは統一された。
こうして国境を越えた資本の流入や、日本企業自体の海外企業の買収やら合併が容易になった。
ボーダーレスが世界(実際にはアメリカ)の要請だったといえる。
感覚的には、支店別の「慶弔」や「麻雀」のローカル・ルールがどんどん廃止され本店ルールに強制的に統一されたような不快さがある。
これが地域性の尊重や個人の裁量・やる気、企業体の柔軟さ・強靭さの基盤を損ない
個人は再び自分を切り分け、新たなモチベーションの手段を考えざるをえなくなった。
企業体は内部統制システムやら告発制度が整備される一方、実際には誰もが組織が脆弱になったと感じていた。
取引先・企業グループへも共通的なガバナンスの強化を求め、多くの企業の等質化が急速に進んだ。
この流れにおかしいと言い続けると、守旧派や抵抗勢力に区分けされ本当に排除された。
結局、企業体のなかで労働のモチベーションを得ようとしたら、強力な世界水準に黙々と自分を同化させ働く以外無くなる。
この同化作業に自己緊縛的な快を感じるヒトもいれば
有用とされる能力の不足やコミュ障気味であることがやたら拡大視される新世界に、「生きづらさ」、「しんどさ」を感じてドロップアウトするヒトもいる。
その中間に、ヤレヤレと適当に憂さ晴らししながら、破たんしないようやりすごしている(僕のような)大量の人々がいる。
自己超越的な世界への「帰依」について
モダンの社会フレームに違和を感じてしまうと
自己超越的な世界がとても誘惑的にみえることがある。
自己超越的な世界にいる自分を想像すると、いままで全く希薄だった幸福感や高揚感や使命感が得られそうな気がする。
解毒できそうに、慰藉を感じられそうに思えることがある。
大きく陰謀論の世界観を見てみる。
強大なパワーを持つ闇の支配者が世界を支配しているとして
社会現象のみならず大地震、津波のような自然現象も、全事象の説明を俄然わかりやすくしてしまう論がある。
そもそも古代の地球は宇宙からきた少数の賢者が支配して文明を起こし
それらの子孫が世襲的に現在も地球を密かに支配(アメリカ大統領も)しているという論もある。
(まるで『ダ・ヴィンチ・コード』(2006)のような風味だ)
あるいは人間の個の意識はひとつの絶対的宇宙意識と繋がっていることに気づかなければならないと喧伝するスピリチュアルな論もある。
肉体を離れた不滅のソウル(魂)が想定されたりする。
日常の人間関係においてもソウル(魂)という概念が重視されたりする。
これらはいずれも、すべては必然であるという考え方が漠然と共通している。
何よりも選ばれし者、選民思想による救済物語のニオイがして
僕を慰藉することはなかった。
この世における自分のミッション、運命を仮構したくてたまらない選ばれし頭の持ち主は、この種のカルト・フィクションに慰藉を感じることはあるだろう。
しかしこれらの論の
自己超越的な理念(存在)との一体化を目指す、どこまでが自分でどこからが自分でないのか、自分と他者が峻別されない、あいまいに溶け合ったファンタジーが
僕を解毒し慰藉することはなかった。