これは
の続きです。
解毒され慰謝される関係先
僕らは多様な他者の前にいる。
他者とは、身体、自然、ヒト、組織、エンターテインメント・思想・学問のような文化、フォーマルあるいはインフォーマルな規範などの環境であり、それに自身の心も加わっている。
それぞれに対して、自分の心を切り分けて関係の仕方を決め関係している。
このとき棚上げにされた自分の心の残量が少なければ少ないほど解毒され慰藉される関係先になるといえる。
解毒され慰藉される関係先は
自分の空想世界であることもあるし
心身を投げ出し全面的なかかわりを無条件に受容するパートナーであることもある。
ヒトの心を経由する以上、これらに序列はつくれない。
何と!自分の空想世界が、解毒され慰藉される最大の関係先になることもある。
それは『マッチ売りの少女』のようである。
信ずるものは救われる、とは限らない
ところが、そういうものだ、これでよし、とは絶対にならない。
それが、癒しとか、ホッコリとか、自分へのご褒美とかに留まっていれば問題はないが
洗脳、アディクション(嗜癖)、依存、その他心的疾患、テロまがい、犯罪となる逸脱がいくらでもあり得るからだ。
社会的自由度がどんどん狭められていくときに
心の自由度だけをひたすら拡張させ補償しようとする
(現代版『マッチ売りの少女』のような)
ヒトの心の奔流はとても、とても切ない。
「リハビリテーション」の教科書によれば
障害受容(慢性病でも同じはず)には
①ショック、②否認、③混乱、④受容
というステップ、時間経過が必要である。
これはすべて心的な手続きなのだから、絵に描いたように順調に行くはずがない。
だから障害や病気受容の全過程のどこでも、不可思議な自己超越的な世界やビジネスが、アナタを鴨にしようと口を開けている。
どんなに婉曲な高尚な言い回しをしていようと
本屋で平積みのまま埃をかぶっている自己啓発本と同様
信ずるものは救われる、以上のことは言われていない。
そこでは、心の持ち方を変えようが変えまいが
現在の境遇に感謝しようがしまいが
自己超越的な世界に「帰依」しようがしまいが
病気は、よくなったりも悪くなったりもするという
単純な事実が無視されている。
不可思議なファンタジーを
信ずるものは救われる、程度のことは
ギタレレ漫談ぴろきの
「明るく陽気にいきましょお」の世界や
病気でグジュグジュしているより
笑って生きたほうが楽しいだろう
という世間智を超えたりはしない。
ありふれた決心
なに者か病者らを食い物にする「健常者」がいて
それに乗った病者らがさらに拡散させているという事態と
僕が交差することはないだろう。
本当に身体が病んでしまえば
①ヒトの生物的自然に沿ってしか「回復」や「再生」がないこと
だからもう
②心の酷使はいらない、心は放置するもの
と、気付くしかないはずだ。
どのような意味でも、自己超越的にプッツン(死語ですか?)したり、心に負荷をかけたりする必要はないはずだ。
それは自然災害や事故による被災が、自分の意思に関係のない偶然であったのに
僕らが自責・自虐の念にとらわれる悲惨*1や
付きまとうクズの「アナタの不幸には理由(ワケ)がある」という類の恫喝を
思惟一切から外すための決心でもある。
そのありふれた決心の糸口を、僕は探していたように思います。
対応策を考えてみましょう。
身体の活動能力が低減しているのですからそれを60%なら大丈夫と仮定します。
- 仕事、家事、家族の世話をすべて60%に落とす。
- 生活のため仕事は稼働率を落とせないなら家事、家族の世話を大きく落として全体として60%に落とす。
- 仕事が炎症を起こしている身体に直接負荷がかかるのなら配置転換、転職をする。
こういう具体的でありふれた方法以外何があるというのでしょう。
だから本当に必要なのは慢性疼痛と同じように「社会的サポート」なのです。
- 家事、家族の世話を代行する
- 本人の行動を介助する
- 新たな仕事のために配置転換、転職を世話する
- 一緒に気晴らしにカラオケのような遊興、会食、旅行をする
- 本人にありったけの語りを許す信頼感ある人物を傍におく
こうして多様な人々との関係の中で本人の生活が成り立っていることが自覚できるようになれば
寝食を惜しんで心身を孤独に酷使してきた完璧主義、いつでも人から誉められていたいいい子主義
のような頑迷さは氷解していくでしょう。
人々との距離感は予期できるものに変わり、心の動揺は次第に収まるでしょう。
心を入れ替えようと努める必要などないのです。*2
*1:
前世で何か悪行をした、前世のカルマだ、こんな事態になったのは天罰だ、この世でカルマを解消しなければならない、そのための痛苦が自分に与えられている、これは必要・必然だったのだ、自分の至らなさが罪のない子供に苦しみを与えた、申し訳ない、自分のせいだ、というような解釈