たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。

「ハート・プラス」マークを淡々と使う  その2/2

これは

「ハート・プラス」マークを淡々と使う  その1/2

の続きです。

 

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https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180320/k10011372351000.htmlから

 

ξ

卑弥呼のような神官が支配していた古代は、病気や怪我や障害は祖先の因果応報(それは神による罰)などと考えられ祈禱が最上の治療であって、その当事者は異端や罪人として扱われていたそうである。

 

現代になって障害者らは、施設や病院で生活し(精神障害であれば「社会的入院」)、他人の管理下に置かれることが望ましいとされてきた。

しかしこれは古代の社会フレームと結局のところ深刻な差はないようにも感じられる。

ようやく1970~80年代から地域で普通に暮らせるよう社会環境を変えていくこと(ノーマライゼーション)が重視されるようになった。

 

これらの流れが自然発生的にできたはずがないし、医師、思想的運動家のみならず障害者、病者ら「弱者」(=マイノリティ)による闘う歴史があったはずだと容易に想像できる。

これはマジョリティである健常者向けにデザインされてきた社会フレームを変更していくことを意味する。

それでは誰が変更していくのか。誰が変更突破口を開いていくのか。

 

ξ

電車に、ヘルプマークを持って乗ることができる病者・障害者を前提として考えている。

病者・障害者とまではいえない健常者であれ

社会で生きる時、丈夫なヒトと病弱のヒトがいる。

社会で生きる時、精神的に強いヒトと弱いヒトがいる。

社会で生きる時、優秀なヒトと優秀でないヒトがいる。

逆立ちしても変えようがない能力・体質・性格・個性の差異が最初からある。

その結果

社会で生きる時、有用なミッションを持つヒトと持てないヒトがいる。

社会にはそもそもヒトの「わけへだて」があり、そういうヒトたちが互いにまぎれてザワザワ軋轢を起こしながら共存して暮らしている。

 

しかし、先人たちの努力の成果もあって、マジョリティの大多数は公共の場で「弱者」を無視するようなみっともないマネはしたくないと思っている。

誰に要求されなくても、駅のホームを幼児や高齢者や杖をついた障害者がおぼつかなく歩いてきたら、大多数は線路側のカベになったりその足取りを見守ったりするだろう。

 

ξ

僕には、誰もが負けるもんか!と、自分の環境と闘って生きているとしか思えない。

その証拠に、薄っぺらな間に合わせの急ごしらえの俄か仕立ての表層の意識を捨てまくって、もうナルヨウニナレと思った時ですら

負けるもんか!と粛々と闘っている無意識を自覚できる。*1

こういうベクトルを意識化しているヒト同士の連帯ほど心強いことはないだろう。

同じ闘う瞳、同じ微笑む瞳を持っているからだ。

このとき、外形に過ぎない五体満足、健康、定型発達というマジョリティと、五体不満足、障害・疾患、非定型発達というマイノリティは区分されるべきカテゴリーにはなっていない。

 

ξ

  • 健常者は、障壁を乗り越えようとする障害者の姿に感動しているヒマがあったら、まずはその障害を取り除けよ、という話ではないでしょうか。障害者には「頑張らなくていい権利」があるはずです。
  • そうした(注:パラリンピックで競技する短距離走者や自立生活を実現した重度障害者に)「感動する健常者」である自分を振り返って、反省する視点を決して捨て去らないことも大切です。自分自身が「障害者に障壁を押し付けている健常者」なのにもかかわらず、という欺瞞が、その「感動」には常に含まれてしまっていることを、わかったうえで・・・*2 

今どきの識者が、なぜ大昔のサヨクのように、こうした、いじけた論理を展開しているのだろう。

並外れた努力や才能の結果、開花した成果物に、ヒトが素直に感嘆したり喜んだり楽しんだりするのはよくないことで、隠された「欺瞞」を口をへの字にして常に反省しろと言っているのだ。

芸能、芸術、スポーツ、その他エンターテインメントにおいて、こんな応援のしかた、楽しみ方などあり得ない。観ない関わらないほうがましだ、ということになる。

 

健常者であることがまるで罪であるかのように、障害者にビクビク、言葉を飲み込んでしまうような姿を強要している。

健常者であれ障害者であれ、その努力や才能の結果、生み出されたパフォーマンス、技能、美についてヒトが驚嘆・賛美する自然さを、そのまま肯定できない思惟は出発点から間違っている。

 

僕は、生来の脊椎側彎症を抱えるウサイン・ボルトの、奇妙なフォームで過大に下半身に負荷のかかる走法に耐える独特のトレーニング方法を、深い関心と「感動」を持って見てきた。

また、ごく最近4月12~15日の、難病潰瘍性大腸炎を抱えた重永亜斗夢(しげながあとむ)が、子供の頃、健康のために始めたというゴルフでプロ転向後、東建ホームメイトカップ石川遼を押さえて初優勝したテレビ中継に小躍りした。

 

ヒトは負けるもんか!と頑張るようにできている。

僕がずっと虚空を見つめていても、頑張って生きていないことにはならない。

もちろん頑張らない権利を享受していることにもならない。

 

いまなおテレビでよくやっている韓国歴史ドラマふうにいえば

聖君(セイクン)両班(ヤンバン)ではない「健常者」と「障害者」が、聖君・両班の社会フレームと闘い変更していこうとするのが筋道、早道であると日頃思って過ごしている。

「脅し」も「怯え」もない関係でなければ、連帯どころか、日常の依存先にもならないはずだ。*3