たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年初めに不明熱で入院、急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治!を目指しています。

ワタシたちのロス率 と 7割のヒトの幸せ  その1/4(それはそれで) 

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 ξ

クソ暑い中ではPCに向かってあれこれ事務仕事をしているだけでも、ぐったり疲労感がある。

頭が疲れるということを実感する。

コピー機の前で立ったりしゃがんだりしていてもため息が出るし、大した労働に感じられる。

  

炎症反応(CRP)が、ワタシの最近値の100倍近く出てしまうと、かえってサバサバする。

こわばりも痛みも極度の疲労感も、器質的な異常の指標が検査結果に表れず、心因性だの非器質性だの機能性身体症候群だのとなれば、その診断も治療も難しくなるのは目に見えている。*1

検査値異常が明らかならば、さらに検査項目が増える苦痛を患者に与えてしまっても、医師も真剣に病名を見つけようとするだろう。

 

ξ

病気は人の「自由」を明らかに狭める。日常の選択肢を損ね減少させるが、病気になって気付くことがたくさんあるのも間違いない。

しかし病気になってよかった、なんていうのは病者の身勝手な言い分だ。

 

ワタシたちは誕生以来、それぞれの心的身体的要因と環境的要因にうながされて、たくさんのことに気付いてきた。

それは、全くバラバラ、個別の気付きである。

しかし心的身体的要因と環境的要因そのものの類似性またはパターンの類似性から

その人の気付きに、ココロがアッ!と共鳴することがある。

その結果、濃淡があるにしろ人としてつながりができたり連帯ができる。

反対に気付きに共鳴する想像力が無ければ時間をかけても理解が進まないことがある。

 

病気をもたらしたものも、ワタシの心的身体的要因と環境的要因であり、なにかほかに特別な気付きの要因があるわけでもない。

病者が健常者を超え、健常者が病者を超えて気付きを拡大する力(チカラ)は本来等価だ。病者の優位性も健常者の優位性もありはしない。

そうでなければ共鳴も人とのつながりも連帯も拡がらないだろう。

 

ξ

このクソ暑さは生命の危険があると連日言われているし、かつ炎天下を歩いていると眩暈や吐き気もするのでアウトドアの運動は一切していない。

細々と室内型リウマチ体操が復活した。

早々に行こうと思っていた東京国立博物館の「縄文展」も先送りになった。上野までは暑くて遠いからだ。

冗談じゃねーぜ、「健康でもない、文化的でもない、最低限」の生活の気分だと、言ってみたい気分だ。

 

ξ

数値化される合理性・効率性が有用・有意味とされる社会フレームのなかでは人のロス、ロス率が考えられている。

 

この結果、人のロスとみなされそうな脱落した3割の層とそれ以外の7割の層に二分して、無関心、冷淡、抑圧、鎮圧をキーワードに、すれ違わない、目を合わさない(=目に見えるが認識しない)という区分(上位カーストと低位カーストが急速に広がっているようにみえる。

 

この3割の層に、最近目立つ、より強者に何ら歯向かうことなく、殺傷可能な、より弱者・よりマイノリティに照準を合わせて差別し暴力をふるう心性の加害的マイノリティも一緒にして消去してしまいたいという、7割の人々の衝動が感じられる。

 

7割の層から転落しないよう懸命に努力するのは当然だが、3割の層にずり落ちることはある。それはそれで仕方がないと思う。

 

しかしその時ワタシたちは、加害的マイノリティという、さらなるマイノリティに転落する心性を遠ざける糸口は見つけられるはずだ、と思える。

それは加藤典洋氏流にいえば「どんなことが起こってもこれだけは本当」とこだわるような意思である。*2 *3

 

人の幸せについて考えてみるというのは、幸福感が希薄な証拠または(病気で)暇な証拠だ。それも、それはそれで仕方がないと思う。

 

 

*1: yusakum.hatenablog.com

*2:

加藤典洋『どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ』、岩波書店、2018

*3: 

yusakum.hatenablog.com