ξ
ワタシが読ませていただく、ごくわずかなブログの書き手について、かつて次のように書いたことがあります。
そのうち僕が好きなのは、どんな記事でも、何か自分に言い聞かせているような特有な思いが伝わってきてしまう記事だ。
そのような記事にはウソがない。
またウソがあっても人間の心の真実には届いているような
あるいは
思わずもがいて飛び立ってしまったが一瞬真実にはタッチしていたような
感触が残る。
病名の差、男女の差は全くない。
僕のようにようやく子供を追いだした年代よりさらに上の年代でも、二十歳を過ぎたばかりの年代であっても差はない。
本当にすごいことに真実に届く感じに、積み重ねた社会経験やら世代は関係がない。
こういうわずかな作者たちをどうまとめて呼んでよいのかわからない。
多くのナマの動揺とかすかな静謐の間を行ったり来たりしている、しかし動揺と静謐は混じり合わない、混濁しない、ごまかさないといったクリアな心証を持てた時の
いい人だなぁ、という読後の呟きでくくってみるほかはない。
こんな身も蓋も無い言い方になるが
フェイク記事などともっとも遠い作者たちだ。*1
ξ
ワタシたちが、痛くて、不快で、夜中によく目が覚め、寝覚めがひどく悪く、もう何なんだ、いったい! という朝を迎えたとき
身体のココカシコが痛い、痛いと考えているのか
それとも
毎日、生きていること自体を痛い、痛いと考えているのか、区別できず混濁していることがあります。
なんか疲労困憊している、そしてどうにもならない感じにとらわれています。
もちろん、身体の痛い箇所や体調不良の理由を突き詰め解決していこうと考えるのが正常です。
この場合、まず求めるものは(例えば病名のような)知識(見識)です。
しかし、どうにもならない感じへのとらわれが
カラダがおかしければ気も滅入ってくるぜ、というような正常な納得の水準を超えてしまえば、いくらか心的異常がある、病的であるといえます。
疲れているのに、光、音、戸外の人々の声、つまり外的環境の多くにひどく敏感になり何かにつけて胸騒ぎがしたりします。
まず求めるものは知識である、なんて言っていられなくなります。
こうしたいくらか病的な異常は増幅させてはいけない。
これを慰藉するものは、ばら撒かれた知識ではなく
まずは人のココロとの接触であるように思えます。
ξ
いまは昔と違い、外部は
眩しいネオンサイン、けばけばしい広告塔、看板のように
目と鼻の先のディスプレイに進出しています。
内部がなくなっているといえるかもしれない。
こんなことはかつてないことです。
『ブレードランナー』(1982)では、主人公デッカードの部屋も、タイレル社技師セバスチャンの部屋も
不気味にサーチライトを差し込んでくる外部からの侵入の気配や恐怖を感じさせながら
遮断された空間を辛うじて確保していたようにみえます。
光も、音も、湿気った外気もどうにか遮られた空間で
デッカードもセバスチャンも孤独に安堵した呼吸をしていたようにみえます。
いまは外部から吹きっ曝しです。
やかましく、ギラギラ、けばけばしく、ド派手なネオンサイン、広告塔、看板のような超速の世界が
ほんの目の前を過ぎていきます。
これほど外部に曝されてしまうと
同じくド派手な、声高な、ただ正しいだけの、深掘り無用、軽妙自在なアジテーションを生み出すポップ・スキルのみが
同じ水位で対抗できるようにみえます。
とてつもない量の文字、動画が虚空に飛んでいきます。
もし不完全性をそのまま表現しようとすれば
どうしても舌足らずな躊躇、羞恥を伴なってしまいます。
躊躇、羞恥といったものは時間を停滞させ
超速な世界では、本来、余計なものです。
ところがそれらは、許容されないということもなく
何を書こうが自由じゃね
とかいうニヒリズムが
不完全性も、その躊躇も、羞恥も
膨大なネット空間の隅っこ、炎上などという世界と正反対のところにひっそり生息することを許しています。
かえってその放置された感じが
乾いた、陰影すらないアジテーションを誇示する表舞台から一層遠ざかっている印象を与えます。
だからそうしたもの、なんかついていけない感じを書き続けるとしたら、ひどく地味でしんどいだろうと思えます。
熊谷:
また、人は自らの過去と切断されないからこそ、一貫性を持った価値観を維持できますが、今のポストフォーディズム社会*2では、あっさり過去を手放して、次々と新しい価値に飛びつく労働者・消費者が求められる。
過去にこだわりが強く、変化が苦手な傾向がある人の生きづらい世の中です。
<現代人の「生きにくさ」 ゲスト・東京大准教授、熊谷晋一郎さん(その2)>
ξ
書き手が意識的に、どうこうできないところがあります。
意識してしまったら俄然おかしくなってしまうことがあります
無意識に沈黙してしまったところに意味があったりします。
いつもうまくいくとは限らない。そして持続できるパターンかどうかもわかりません。
たとえば
雄大な夕焼け空を前にして、書き手のザワザワしたココロも色合いを変えた瞬間が書きとめられていたとします。
ところがワタシたちは、いまどき、単に美しい夕映えの画像ならいくらでも手に入ります(壁紙のように)。
つまりワタシたちは夕映えの美しさを追体験しているわけでもありません。
夕映えが美しいと思ってしまった書き手の、いくらでも手に入るとは限らないココロを追体験しているに違いありません。
このときワタシも
そうだ、一日中、痛い、痛い、言っててどうなるんだ、もう、夕飯の時間じゃねーか
と、ココロの色合いを変えることはあり得ます。
自分のココロの折り目をつくることはあり得ます。
ξ
一瞬「真実に届く」「真実にタッチする」という言い方は、いまは言い換えることもできます。
言い換えていくらかしっくりするのはワタシだけで、相変わらずわかりにくいかもしれませんが
何かの拍子にココロが色合いを変える
何かの拍子にココロの折り目が垣間見える
というような記事に惹かれ接触するのだろうと思います。
それは非ブログ的だし、非ネット空間的だし、そもそも非超速情報社会的かもしれない。
しかしココロの色合いの変化や折り目のようなもののある記事は、きっと未知の誰かの慰藉になっています。
その方途の始めは、不完全性や躊躇や羞恥をやり過ごさないこと、に尽きるような気がします。