これは
ワタシたちのロス率 と 7割のヒトの幸せ その1/4(それはそれで)
の続きです。
被雇用者のロス率のこと
製造加工工場を考えてみると
日産何トン、何ケース、何袋という生産高の達成には、必ずロス率が見込まれています。
このロス率の設定は製造計画上不可欠です。
そしてロス率を減らすのが製造ラインの課題になります。
企業が新卒を採用しようとするときの歩留まりの考え方も、別に製造現場と変わりません。
採用部門は、事業展開に必要な員数の算定のみならず
今後の定年退職予定者のほか、必ず中途退職者、療養休暇取得者、精神疾患者などを過去のデータからカウントしています。
つまり中期の、または次年度の採用員数は、この従業員のロス率をオンして決定しています。
このロス率は、長期のデータがあるので計算そのものはやさしい。
ロス率をどのように見込むかというところは
採用員数の過剰・不足を避け、またいくらかは見込み違い(有用性に欠ける者)もいるので採用サイドの腕の見せどころです。
採用サイドにとって、この会社では、なぜ中途退職がいるのか、なぜ長期に療養する者がいるのか、なぜ精神疾患が発生するのかといったことは問題になりません。
採用サイドは数字を「つくる」こと、はずれない採用計画を「つくる」ことが課題だからです。
しかし製造ラインよりはるかに人は消耗品扱いされているように思えます。
原料、製品のロス率の削減には社運をかけたような取り組み(設備投資やら工場移転)がなされますが
従業員などいくらでも代替のきく些細な世界と思われるせいでしょうか。
いずれにしろロス率を含む人件費は
原価算入されようがされまいが販売高から差し引かれるモノの費用(多けりゃ切って節約すればよい)とみなして事足れりとする経営サイド、雇用サイドの世界が厳としてあります。
7割のヒトの幸せ
斎藤:
・・・日本の社会システム自体が七割の人にとって快適な社会を目指しているという現実があると思います。
スクールカーストの上位層が一割、中間層が六割、最下層が三割という森口朗さんによる統計があるのですが、そこからの連想です。
日本は七割の人の幸福が追求されやすい社会であって、そのためには非常によくできた社会構造になっている。
そしてそれは貧困層や障害者などのマイノリティに対するある種の苛烈さや冷淡さや無関心さによって支えられていると思います。・・・
マイノリティが少しでも声を上げると、簡単に炎上が起こってしまう。
信田:
そこでは、自分の子どもがその三割にならないようにすごく頑張らないと、という意識が親に生まれてくるでしょうね。
斎藤:
できれば上位一割であってほしいけれど、せめて六割には入ってほしいとか。*1
これは、いまの社会フレームではみんなを幸せにはできないと言っているだけなのだが
そもそもワタシたちみんなは幸せにはなれないのだ、と変換してしまう人がいるのです。
いつの間にか身に付けた受容の心性がそう変換させているかのようです。
いまの剛直・抑圧的な社会フレームとワタシたちが生きたい社会は、もともとイコールではありません。
しかし幸せになれないとすれば、その人固有の問題にひたすら還元して
思考の忍耐力の無さ剥き出しのまま終わりにしてしまう場合も少なくありません。
呪詛と絶望について
引用した対談の文脈で考えれば、この3割の層、貧困層や障害者という言い方の中には
無職、非正規雇用、低学歴、家庭環境の不幸、精神疾患、病弱、ひきこもり、生活保護など
ワケアリとみなされやすいレッテル層すべてをひっくるめることができると考えられます。
このとき、おぞましく非道な事件が起き、加害者が3割の層であるかのような報道があれば
7割の層は、やっぱり3割の層の人だね、やっぱりクズはクズ、というようにくくって自分を解毒し、なるべく早く忘れようとします。
たとえば40歳代、無職、ひきこもりという解説があれば
やっぱりね、と忙しい庶民は、いかにもありそうな事件と、いつもの直感の正しさをあらためて感じ切り捨てることになります。
この、庶民の直感と事件の切り捨て方の強靭さに太刀打ちすることは容易ではありません。
ξ
ところで、この7割の大部分を構成する(ワタシの出自である)一般庶民から、ワタシたち自身がバラバラずり落ちる可能性はいつでもあります。
このマイノリティ化する恐怖、マジョリティから外れる恐怖、一般庶民の強靭な感性から相手にされない恐怖は
ボディブローのように持続して蓄積していくことになります。
ξ
ワタシは特定の慢性病患者に過ぎず、錯綜し互いに利害関係すらあるだろう3割の層全体を断ずることはとうていできません。
専門的な研究者のような射程を持っていないので、今後もできないでしょう。
一人の慢性病患者が、収入も依存先となる介助者も途絶えた場合にどうなってしまうのか考え続けているにすぎません。
徐々に、だが明らかに7割の層から滑り始めた薄い恐怖のなかで、気付いたり、考えたり、ココロが膨らんでしまったものを書きだしていることになります。
恐怖の代償として
3割またはその近辺の層の、7割の層への呪詛(やっぱりね!への「反訴」であるザマァミロ!)。*2
それはそれで仕方がないと思う時があるのは
病者の、「不幸自慢」や「痛いもの競争」と呼ばれる切羽詰まった絶望の繰り出しも
周囲や同病者への呪詛を含んでいるからです。
病人だって鬱屈をためるより、絶望を口にしたほうが心身の破たんから免れることはありますから
当事者にとって、それはそれで仕方がない時がある、と思えます。
しかし呪詛も絶望も
(意識のほんの小さな揺れとして)
拡張などせず縮小させていくべきものですから
ココロは切羽詰まった使い方をしない
ココロは過去として語れるように