これは
の続きです。
ξ
株価チャートでも見るようにGoogle Search Consoleのクリック数の推移を眺めてみると相変わらず増加しています。*1
また、Google Search Consoleの期間設定にならって直近の過去28日間(4週間)のブログのPV数をみると、13万超になっています。
Googleは常に50%超、Yahoo!と合わせると90%超となることが増えました。
病気になって初めて書き出した病気関連の特殊なブログに過ぎませんが
生活や療養を考えれば、月2~3記事までが、ストレスフリーの限界、それでも見ていただけるのならありがたいことです。
依存先が少ないのはヤバい!
ワタシは慢性疼痛への対処をきっかけに、熊谷晋一郎氏(東京大学准教授)の発言に注目してきました。
その、依存先の極端な少なさは暴力を生む、したがって加害者になり得るし、障害者は被害者になり得る、だから依存先を広く持つことが大切だという見解をワタシは重視してきました。
まったく実感に合致するからです。
病気になり、長期に引きこもるようになると、人とのつながりは希薄になります。
一方、ココロは肥大化しとりとめもなく動くようになります。
家族のような周辺は、やたらとげとげしくなった病人に困惑するでしょう。
それは自分の依存先の少なさ(解体)が原因ですから、まず、ヤバい!と思わなけばなりません。
それではと言って、カチッとした救済的コミュニティやグループをいつまでも探しまわるわけにもいきません。*2
見つからないというのがまた人とのつながりを避ける理由にもなります。
人とつながる機会を経て生まれるはずの依存先が少ないのはヤバい!と思うこと
自力で家を出ることが可能になったらとにかく(電車に乗って)街に出ること
くらいの軽い感度で外出します。
(街では常に「モバイルデータ通信 オフ」「Wi-Fi オフ」。目や耳に入ってくる情報はネット情報ではありません。道に迷っても人に訊く、さまよい歩くしかありません。)
この行動の拡大・好奇心が人とのつながりを次々生む契機になり、活動が増えれば自然に依存先が拡がっていく可能性があります。
強者は豊富な依存先にふだん自覚できないほど恵まれているが、弱者に依存先は限られている、いくらでも依存先があるのが強者、無いのが弱者といえる
と熊谷晋一郎氏は述べています。
人とつながっている空間
マイノリティ化の恐怖、とりわけ孤立化の恐怖を緩和するヒントは
どのような層にいようと、身近なところ、それは人とつながっている空間にある、と言えそうなのです。
多くの人は、ある種の怖れから口にしない、口にしたくないだけで、本当は、そんなことはわかっているとしか思えません。
ところでTV健康番組で、寝たきりにならない優れた健康長寿の方法について
①人とのつながりを持つ、②世のため人のためによいことをする、③自分の好きなことをする、④運動、栄養、といったようなものから選択するクイズをやっていました。
老化は、関節リウマチ、多くの膠原病のように炎症が強く関係し、その炎症を減らすための最優先事項は、意外にも、人とのつながりを維持することにあるということでした。
世のため人のため黙ってゴミクズを拾うとか、自分の好きなことをするとかより、ずっと効果的な、人とのつながりの重要さが、健康長寿の方法として世界では「まとも」に研究されていたらしいのです。
これは非常に納得できるものです。
病気になれば、「社会的サポート」と言われる周辺の人とのつながりが無ければ、闘病の気力も持続できず、回復の目標すら考える気にならないのが実態です。
こういう、病気からの回復や健康長寿に有効な対策は
実はマイノリティ化、孤立化の恐怖の緩和対策と同じであり
人とのつながりの回復・維持(=人とのつながりを楽しむ)こそ本来的と考えられていたのです。
生身の人とのつながりの先
人とのつながりという、ワタシたちにとってエッ?というほど陳腐な、だからこそ人の生物的自然として本来的なのに
人とのつながりより人の不在の方がずっとリアリティがあると感じる人にとって、どうすればよいのでしょう。
深呼吸して職場に出かけ、ヨコやウシロからの目線や声に
カリカリしたりドキドキしたりザワザワしたり
カリカリ、ドキドキ、ザワザワを夕方まで抱えて未解決のまま居酒屋になだれ込み
ついついその胸騒ぎのせいで酒をかっくらい、喋りすぎて酔いつぶれて前後不覚、どうやって家まで帰ったのかわからない、あーぁという生活をしていたとしても、ワタシたちは人とのつながりのなかで生きています。
やっちまったね、と思いながら生身の人とのつながりを生きています。
混んだ電車のなかで肩がぶつかりあったりすると
(実話ですが)「クソじじい」だの「クソおやじ」だの、聞こうと思えば聞こえる呪詛を呟いて、生身の周辺を嫌悪し遠ざけていく若者男女に出会います。
ぶつかった相手と「袖すり合うも・・・」なんて会話をしてみることはまず思いつかない。
そのくせ、スマホを握りしめ「つながり孤独」なんていう不安を噛みしめていたりする。
「つながり孤独」、そんなチャチなカテゴリーに自分を沈潜させていたらもったいない。
どんなにありふれていても、切なくても
こういう生身の人とのつながりの先にしか、「つながり孤独」の恐怖を緩和する糸口はないのでは、と思っています。
それは
①現状を把握可能感あるまで理解すること
②倦まずたゆまず恐れず社会的経験の上書きを繰り返すこと
という慢性疼痛から回復しようとするステップ*3によく似て
ワタシには信じられるのです。