たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に不明熱で入院、急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。

医療の前に必要なもの

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(仙台駅前 青葉通り 朝)

 

ξ

病者は病者である前から生活者として人のなかで生きてきた。

病者はその生活者としての人生のどこかで思いがけず医療にかかわったことになる。

 

ところが回復とか再生とか成長とかを病中・病後に考えさせられたとき

医療以外の環境の、自分の想像をはるかに上回る重大さに気付いてしまう。

それは小賢しい医療スキルなど完ぺきに突き放す世界だ。

それを語るにしても、極限的な現場にいた人の発言を聞いたほうが適切でわかりやすい場合がある。

 

綾屋:

私にとってのそのモデルの一人が上岡さんなんだなと思います。

女性のモデルは少ないので本当に貴重な存在です。

とはいえ、人とつながったばかりの頃は自分のことで精一杯、右も左もわからない状態なので、他者を見る余裕はありません。

数年かけて徐々に話を聞くなかで、上岡さんの生い立ちや苦労の経緯を知り、そして何かと助言をいただくうちに、だんだん「この人が私のモデルなんだ」と実感するようになりました。

・・・ 

「転げ落ちて全てを失っても、ここに来たら生きていけそうだ」と感じました。

とりあえず寝る場所を貸してくれそうだし、ご飯もたべさせてもらえそうだと(笑)。

当時はどうやって人とつながって生きていけばよいのか本当にわからなかったので、似た苦労を抱えた仲間同士で生き延びていける場のモデルの存在に救われた気がしました。

稼げなくても、人とのつながれなさがあっても、家族がいなくなっても、生き延びられる場所とつながれたことは、生活していく上での大きな支えになったんです。

 

上岡:

他にも、漢字が読めなくても、掛け算ができなくても大丈夫です(笑)。*1

 

これは、極限的な状況での話だが、まず、人とつながっていくことの大切さが率直に語られている。

彼女らに、回復やら再生やら成長の技法など後回しだ。

もったいぶった回復のスキルなどが登場する場面ではない。

稼げなくとも、家族がいなくても、誰も頼りにする人がいなくても、眉をひそめる人もなく、新しい仲間を邪険にすることもなく、人とつながることのできる場所が、何よりも優先されるべきだとわかる。

  

ξ

つまり、生きて人とつながれる場、そういう場があるかどうかが、回復、再生、成長のための、非常に大切な条件になる。

 

 上岡:

このあいだ、ダルク女性ハウスでもトラブルがあったんですが、・・・この報告書が国のものなのか、個人の研究なのか、大学の研究なのか、あるいは卒論なのか修論なのか、当事者には重要度や使用目的が理解できないまま、山のように専門家の文章が送られてきて、対応させられているという現実がある。

 

綾屋:

・・・当事者だからという以前にそもそも素人なので、「研究者=偉い人」と思い込んで弱腰になってしまい、何にどれくらい意義があるのかわからないまま、好き勝手に介入されてしまう怖さがありました。・・・

 

上岡:

その悩みは多くの自助グループが経験していることです。

ダルクでも団体として大きくなると、さまざまな研究者が入ってきました。

・・・「ダルクはどうしたいですか? 今何に困っていますか?」というかたちではなく、「自分は今こういうことをやっているんですが、やりませんか?」というかたちで入ってきます。

・・・私たちも研究者に対して「あいつらわかっていない」と思わされることはよくあります。

例えば、施設としてのダルクにとって一番重要なのは、みんなの日常生活を支えるということなんです。

特に覚せい剤系の依存症当事者は、薬をやめた後にかなり攻撃的になります。

しかも年齢が若いとますますアグレッシブになることもあり、その状況ではプログラムどころではありません。

普通に朝起きる、ご飯を食べる、一緒にコーヒーを飲む、お掃除する、散歩するみたいなことを丁寧に付き合えないと、プログラムなんてあったもんじゃないわけです。

薬物依存に関してはまずは三年、日常生活を再度作っていったり、日常的な感情の表し方を学んでいったりした上で、ようやくプログラムが始められるという感じです。

ところが、プログラムをやらないと何も支援をやっていないような感じにさせられてしまうことがあるのです。

『その後の不自由』の共著者の大嶋栄子さんも、生活を支援している施設を運営していますが、「当たりまえに暮らすことから全てが始まる」と言います。・・・

でも、朝になったら起き、活動に必要な栄養をとる必要を知るなどは、誰にも欠かせないのに、体験しないまま施設につながる人も多い。

ともに暮らすなかで、その人にあったらよいと気付くことを伝え、一緒にやってみることは大切な支援です。

にもかかわらず「〇〇プログラム」みたいなものがより重要だという顔をして導入される。

プログラム以前に暮らしそれ自体を丁寧に支える大切さが理解されないと、施設が大事にしてきたことが壊れてしまうのではないかと心配しています。

かつてはこのスタンスを守ってくれる専門家/研究者もすごく多かったんです。

プログラムが行政から降ってきたときに、「ダルクはそれでいいの?」と何度も言ってくれる人たちがいたものです。(脚注書)

 

人とつながるとか、生活を作り直すとか、どう感情表現をするか学んでみるとか

要はすべてに先立って当事者の暮らしの道筋をつける大切さを理解せず踏み込んできて

なんか目新しく見えれば、断片にすぎない医療モデル的なスキル・技法を抽出できないか、それで論文が書けないかとスケベ根性ですり寄ってくる自称・医療専門家を

自助グループの運営者と当事者が痛烈に批判している。

 

ξ

会社人事部門の教育研修で行われたグループ討議を思い出す。

ルールどおり司会者と書記と発表者を選び、限られた時間内、画期的なアイデアもなにもありはしない、ソツのない出来栄えを目指して、講師もワタシたち自身も何も期待していない、ただのヒマつぶしをしていたことを思い出す。

ワタシたちはここで、出まかせ程度のアイデアをもとに「無難なとりまとめ方」の自己スキルを試していた。

 

違うのだ。公開されている自助グループの動画を何度か見てグループ討議などとは全く異なることに気付いた。

何を語ろうと、どんな課題設定をしようと、どんな意見交換をしようと、そんなことよりはるかに大事なのは

ここに自分が来たりしてもいいんじゃないか

ここに自分が居てもいいんじゃないかという

人同士のつながりの安堵感が、声を出してみる、書いてみることのベースにある。

 

そして彼・彼女らが、仲間の課題に口をはさんでみる、という体験によって

自分自身の安堵感を再確認しているかのようだ。

これらをおそらく毎回繰り返している。

その結果、自身の安堵感や思考の幅が、ある強度が加わるように変化する可能性もある。

そのコスト・パフォーマンスなど問われない。

 

ξ

世話の必要な病者に限定しても、人との無条件のつながりの場が必要だ。無条件に、鬱陶しいほど人から構ってもらうことの大切さだ。*2

やっぱり、人とつながって、すべったりころんだり、泣き笑いしながら、治療、栄養、運動などからなる回復プロセスに、そして再生・成長に向かっていく。

 

 

*1:

発達障害と依存症の仲間が交差するところ』、綾屋紗月+上岡陽江現代思想8月号、青土社、2017

綾屋紗月氏 アスペルガー症候群(高次機能自閉症)当事者

上岡陽江氏 ダルク女性ハウス代表

*2: 

yusakum.hatenablog.com