たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。

続々・「男はつらいよ」の遥かあと、別れの空虚について小論

これは

続・「男はつらいよ」の遥かあと、別れの空虚について小論

の続きです。

 

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ξ

戦後復興、高度成長の途上で

低収入や長時間労働や生まれの違いによる強固な身分差のなかで損なわれた(し)のココロは

仁義やなにわ節やアウトローに擬した情緒的解放の時代を経て

次第に高度に3次産業化した企業群による需要喚起のための、ひたすらな情報膨張が吸収・解放してきたようにみえる。

それは「デザインと広告とクレジット」による情報資本主義、消費資本主義と呼ばれるものである。

 

先日、テレビで私をスキーに連れてって(1987)を20年振りくらいに眺めていたら、あらためて気付いたことがあった。

バブリーでスタイリッシュでヤンチャな若者のスキー場での恋愛映画に過ぎないというわけでもなく

スキーブランド「サロット」の企画発表会を成功させようと、万座まで全員、命がけで向かうシーンが最大の見せ場になっていた。

 

それは辛うじて間に合い、めでたし、めでたしなのだが、この真面目さに嫌な感じはしない。

力を合わせ仕事を成功させたラストシーンの真面目な達成感の笑顔に嫌な感じはない。

それはきっとワタシ(を含めた多くの人々)が、企業文化に吸収され、そのなかにヤリガイやらイキガイを見出し続けてきた長い時代を暮らしたせいである。

 

こうして人々が経済的に向上し、デザインや広告の価値が膨張し、しかもエンターテインメント化(それらは新しい担当部門や職業を生み出す)することによって

の損なわれたココロが大義、正義、仁義など)による代替的解放に向かった時代は、根こそぎ崩れていった!ように思える。

デザインや広告や情報エンターテインメントから生まれるファンタジーに浸ることがのココロの解放になった。

この映画の後、ファッショナブルなスキーブームが生まれたのもその象徴のひとつだ。

(北国の市民スキー場でのスキーとはずいぶん違っていて、スキー場へはセリカで、着いたら女子はニット帽、ゴーグル、白のつなぎのスキーウェアで、ゲレンデではグループのトレイン走行で、宿泊はプリンスホテルで、だったそうです。夢のようです。)

 

またエリートの成功といえば、情報資本主義、消費資本主義のなかに吸引され実現されてきたように、現在でも、強者にとってこの社会経済状況は強力な魅力があることは疑いない。

 

 ξ

もう一回、「喧嘩辰」(1964)という演歌から20年後、1980年代を過ぎ、さらに20年後、現在の手前、2000年代の、損なわれたを歌うポップスまで行ってみる。*1

 

言葉にならない夜は 貴方が上手に伝えて

絡みついた 生温かいだけの蔦を まぼろしだと伝えて

 

心を与えて 貴方の手作りでいい

泣く場所が在るのなら 星など見えなくていい

 

呼ぶ声はいつだって 悲しみに変わるだけ

こんなに醜い私を こんなにも証明するだけ でも必要として

貴方が触れない私なら 無いのと同じだから

・・・・・

奇跡など一瞬で この肌を見捨てるだけ

こんなにも無力な私を こんなにも覚えていくだけ でも必要として

貴方に触れない私なら 無いのと同じだから

・・・・・

鬼束ちひろ「流星群」、2002)

 

「私」の触(さわ)れない「貴方」はひたすら遠い。「貴方」は自己超越的な遠い神のようだ。

離れて「呼ぶ声」も届かない「悲しみに変わるだけ」の空虚を埋めようと

いくらか強引に「貴方」を天から降臨させよう、引き寄せようと呪術的な掻きむしり方をしている。

だからいくらか神がかっているし、スピリチュアルでもある。

 

<こんなに醜い私を こんなにも証明するだけ でも必要として / 貴方が触れない私なら 無いのと同じだから>

 

この歌も「貴方」の不在という空白の傷を

「私」へ還流してくる世界、自分の「手触り」だけが確かな内閉的な世界で埋めようとしている。

だからその世界は、被虐的、自傷的、自己憐憫的であり、その胸いっぱいの苦悩は、「Motherland」と同じように痛ましく、幼く、孤独な快を生んでいる。

 

ξ

死んでいても、戦争に行っていても、自己超越的な存在に擬されていても、鋭敏な歌に現れる「君」や「貴方」の不在は、空虚な情緒のまま歌われる以外にないのか。

資本主義的な成功者になることもなく、しかしアウトローになることもなく、キ真面目に生きようとした時、被虐的で自傷的で自己憐憫的な情緒に浸かってしまうのはなぜなのか。

 

虐げられた人々に古代から歌い継がれてきた哀歌のように、いまも生まれ続けているかもしれない。

ワタシは、音楽を聴くとは音楽CDを買うことであった年代に入るが、まれに買うものは感情過多でないジャズの器楽曲に変わっている。

2000年代からさらに10年経った現在、2010年代の哀歌があるのなら、それは誰かに訊かなければわからない。