たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。

続 ・ 夫婦のきずなと命について  

これは

夫婦のきずなと命について

の続きです。

 

ξ 

DV加害者やその被害者は、夫婦(または成人男女の持続的関係)では、扶養扶助する者、扶養扶助される者が分離される関係にあることも、そのことを無条件に受容する関係にあることも経験していない可能性がある。

 

つまり「守りあう」という持続的関係の大切な経験していない。

 

DVや虐待の加害者は、そのように自然に会得される穏やかさを持っていない。

不思議なことに、彼らは、自分を抑圧する世界を見極め闘ったり逃走したりするよう自らの心や身体を鍛えるのではなく、その病的な資質は、扶助不可欠な者、抵抗不可能な者にしか向かわない。

 

DV加害者プログラムに13年間かかわってきたが、ファシリテーターとして最初にグループに参加したときの印象は、驚くほどアルコール依存症のグループと似ていた。・・・その敗北感から(注:依存症当事者やDV加害者による)さらなる弱者への差別や暴力が生まれる光景は、残念ながら稀ではない。

 

信田さよ子アディクション自助グループ、そして当事者性」(臨床心理学、増刊9号、金剛出版、2017)

 

世間には彼らは社会経験が貧弱で未熟すぎる、と断じる識者もいる。

経験の貧弱さ・薄弱さは気の毒な生い立ちだが、自身が社会規範を構成する一部である以上、その倫理の混濁が免責されることはあり得ないし厳罰を受けるのも当たり前である。

 

ξ

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刑事事件のような事態までいかなくとも、一生を棒に振るケースがある。(ここでは加害者は男、被害者は女として考えます)

 

夫は結婚当初、「男は女房を泣かして一人前」と言ったので絶対に泣くものかと決めました。

でもいつも泣いてばかりいて、逃げ出すことばかり考えていましたが、子供を授かり、子どものために生きようと思い直し今日まで来ました。

・・・・・

今では子どもがいたから私も生きてこられたと実感しています。

 

毎日新聞投稿記事 2019年2月23日(土)東京朝刊

 

家を継ぐための装置として夫婦正室があり、このため夫婦の外にメカケ(側室)などいて当然というような気分で、夫は威丈高になっていたのだろうか。

そう思っていたのなら全く勘違いである。

家名を何よりも大事にしたかつての大名らが、常に正室を邪険にし側室に入り浸ったり、常に正室と側室は敵対していたというような歴史的事実はないからである。

それは単に男の歪んだ性格に過ぎないとわかる。

 

このとき妻さえ我慢し続ければよいという問題ではなく、次のような「後遺症」について語っている。

 

(注:夫が他界して)解放されて自分らしく暮らせるのかと思いきや、長年のストレスからなかなか気持ちを切り替えられず、人生を楽しむ習慣もなかったので苦しんでいます。

夫から受けたストレスは大きく、この年になっても癒されないのです。

 

そして同様な悩みを持つ女性に、若いうちに、離婚に向けて生活資金を貯めよ、一家心中など考えずを大切に、と訴えている。

 

ξ

ワタシたちは、結婚とは何なのか、夫婦とは何なのか考えざるを得ない。

夫婦は成人男女それぞれの自由意思による持続的関係(病めるときも健やかなるときも)であるというのは本当だろうか。

世界はこれを、ヨーロッパ近代の人権思想や特定宗教の倫理観の巨大な影響抜きに確信できるはずがない。

 

唯一絶対の存在(や意識)など到底信じられない者には、全く別のアプローチが必要になる。

ワタシの記憶では

稲作が定着して以降、統一国家成立以前は武力を用いて農地・農民を略奪する方法が中心であり

これは親族共同体構成員のの維持に直接結びつく不可避の流れだった。

 

しかし強奪的に農地・農民を増やし食糧の確保・備蓄を図る方法は 

中央集権的な国家の形成により、その統率的な武力や威光朝貢国への中国のお墨付き)の前に、非常に難しくなった。

そこで平和的に親族共同体挙げての婚姻による農地・農民の確保がなされるようになった。

 

この婚姻の動機は、不足する食糧を安定的に得ようと互いに競っていた複数の親族共同体間の平和的な協同のためであり

ワタシの想像では、戦国大名(TVドラマにありそうな)領地拡大・支配権維持のための政治的な婚姻などとは大きく異なっていたと思える。

 

こうして親族共同体のをつなぐものとして婚姻はあり、個人の自由意思などに価値はなかった。

やがて守るべきカタチは次第に洗練され「家」というものに結実していった。

 

いまだ使われる結婚式での決まり文句「ご両家のご繁栄を祈念申し上げ・・・」という祝辞はフツーに考えたら何のためか分からない。

結婚する二人が幸せであればよい式典で、なぜ両家の繁栄を祈念する必要があるだろう。

婚姻の意味をつなぐ「古代」からの名残りだと思える。

 

「家」が崩壊していく現在

自壊的に「古代」も終わろうとしている。

ようやく成人男女の自由意思だけによる結婚が可能になっているかのようにみえる。

 

ξ  

 ところが

「男と違って結婚さえできればニートでも人生を逆転できるし」

「万が一結婚相手が見つからなかったら転職学歴なしで詰むよな?」

谷川ニコ私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』から)*1

 

男女雇用機会均等法すらなかった30年以上前となんの変わりもないこの独り言が

現在の女子の本音の一部とすれば

ようやく「古代」から脱却して個人の自由意思による結婚が可能になった、などと言ってみるその手前に、生々しい現実があることになる。

 

もちろん「古代」以前から一貫して

いかに自分が喰いっぱぐれないで生きていくことができるかどうかが常に、常に切実な問題だった。

 

ワタシたちは喰いっぱぐれないようにして自分や子供のを育むことからいまだ自由ではない。

その不自由さだけが人の本質に近づいていく。

結婚も就職も生きる歩みのすべてがこの不自由さからの解放に結び付いている。

 

このことを笑い飛ばして受容するか

純粋培養してみた自分の思惟とあまりに隔たった人生の重苦しさに絶望するかで

ワタシたちの将来は変わってくると思える。

 

①喰いっぱぐれないこと

をつなぐこと

それが考えられていない結婚論、夫婦論は、

ワタアメのように空疎で華奢なもの、耳当たりがよいだけの単なる情緒として、ほとんど無価値なものに思える。

 

さきほどの

若いうちに、離婚できるよう生活資金を貯めよ、一家心中など考えずを大切に! と訴える老婦人の言葉はたくましく切実な意味を持っている。

言い換えれば

喰いっぱぐれてなるものか!、 生きてやる!、をつないでやる!といった現実に耐える結婚論、夫婦論だけがたくましく生き残っていけるように思う。*2

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*1:

樫村愛子氏(社会学精神分析)、2017

*2:

この記事は、たまたまテレビで観た『バリー・リンドン』という長編映画にヒントを得ました。

Wikipediaによれば、「『バリー・リンドン』(Barry Lyndon)は、スタンリー・キューブリック監督が、18世紀のヨーロッパを舞台に撮り上げた1975年のイギリスの映画である。原作はウィリアム・メイクピース・サッカレーによる小説"The Luck of Barry Lyndon"(1844年)。アカデミー賞撮影賞歌曲賞美術賞衣裳デザイン賞を受賞した。」