たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に不明熱で入院、急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。2019年9月から「身体・心・希望!」をテーマの中心にしています。

イベントのエンターテインメント化について

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ξ

郊外に引越してよかったのは、数キロに及ぶ桜並木の遊歩道があったことだ。

ハラハラと散る様子もなく、真っ白な満開をしっかり保っている数日間が必ずあって

その時に出くわすと、凄すぎる!と言ってみたくなるほど美しい。

 

桜の時季には週1回ずつ2回、つまり10日くらいは花見が十分可能であることもわかった。

先日、花粉症にめげず再開したウォーキングの折、週末だったこともあって

家族・親族で、ご近所さんでといった、たくさんの宴会風景を見かけた。

 

ちょっと離れた陽当たりのよいところで、70歳くらいの高齢男性がひとりで

シートを敷き、携帯ラジオを鳴らしながら、ロング缶を開け、おつまみみたいなものをムシャムシャ食べていた。

そのくたばらない!感じのカッコ良さに、ワタシは思わず声をかけたくなった。(かけませんでしたが)

 

しかしまた引越しをするので、この春は、ゆっくり少しずつ荷物を処分したり梱包したり始めている。

 

ξ

会社の正式文書は行政にならい元号を使ってきたが、日常は西暦の方がはるかに使いやすい。

幕末の嘉永だの安政だの文久だの言われても、西暦に換算しなければ世界史的イメージが湧かないだろう。

 

今回の新元号発表にあたって、いちばん驚いたのは、イベントのエンターテインメント化というような騒ぎだった。

これはニュース番組を眺めていて、例外が無かったと言ってもいいと思う。

「街の声」など聞いてどうする?

 

なぜ日本は元号を定め続ける必要があるのか

なぜ日本人は元号と西暦による社会認識の二重性を抱えて暮さなければならないのか

という疑義は皆無だったように思える。

 

昭和は輝いていた、などと高齢世代とマスコミがノスタルジックに言ってみるのも

平成は「転落と格差」の深まった時代だった、と識者とマスコミが言ってみるのも

無理くり時代を区切ってみるからだと思える。

 

現代経済学の時代区分でも示されるように

1990年頃から生活感覚がガラッと変わって

それは(その後さらに顕在化し現在まで続く)現代の始まりだった

というのが淡々とした実感に合っている。

 

賃労働者的に言わせてもらえば

1990年代に入って

売上高は横這いまたは減少

利益率は大きく低下

したがってリストラ(再編合理化、解雇、非正規化)が進行したのであって

そのように時代の変化を体験し続けた。

  

ξ

もし新元号が定められたのであれば

天皇がついに退位され、また新たに即位されるのだと

国民がそれぞれの場所で、それぞれの想いで

静かにおごそかに噛みしめていたらよいではないかと思っていた。

 

しかし、TVのニュースキャスターたちの新元号発表時刻を前にした異様なはしゃぎ具合と

SNSへの一刻も早い投稿を目指して集まった人々のアッケラカンとした高揚は

イベントの(商業)エンターテインメント化に、我も我もとなだれ込んだだけの

全国ネットのクイズ番組を観ているような感覚に酷似していた。

 

ξ

今回の新元号発表は、上意下達による支配の仕組みを徹底的に見せつけた。

ワタシたちはひたすら待っていただけだ。

古代から残存する感性では、静かにおごそかに承るべきものだった。

現代の感性では、おおっぴらなエンターテインメント化の対象だった。

「街の声」は、当初、明らかに古代と現代が混在していた。

 

しかし急速に古代は現代のうねりにかき消された。

いまは次々、新元号記念セールのような商業のなかに落ち着こうとしている。

そして今年いっぱいは、絶好の話ネタ(エンターテインメント)になっていくのだろうと思えた。

 

ワタシがこの静寂を破る騒ぎに古風な違和を感じたところで、逆に

イベントの(商業)エンターテインメント化の壮大かつ軽量な奔流に乗り損ねた気の毒な層としてワラわれるようなものかもしれない。

 

なにもかもがアカラサマといった印象を与える現在のパサパサした時間推移は

ほとんどのイベントをアッケラカンと明るみに出し

その結果

イベントの意味を噛みしめることや、それに伴う静寂を世の中から消しさっているように感じられる。