たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に不明熱で入院、急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。2019年9月から「身体・心・希望!」をテーマの中心にしています。

剥ぎ取って、剥ぎ取りまくって残る「生」について  その1/3

ξ

向精神薬についてワタシは

夜間のパニック的な疼痛緩和のためのデパスと、花粉症のとき鼻が詰って眠れないと言ったら処方されたマイスリーの2つしか服用したことがない。

また精神医学的な臨床について学んだことも無い。

だから、ワタシの考えの射程は、精神医学的な疾患当事者まで拡げることはできないだろう。

 

たとえばワタシの不眠は、ステロイド(PSL)の副作用か痛みのため眠りが妨げられるからだと思っている。

 

ワタシの不眠対策はどうってことないものである。

夜中に目が覚めてもう寝付かれず、ヤレヤレ、あーぁとなったら

居間のソファに移動する。

真夜中の気分転換である。

不眠にとりあわない、じたばたしない。

ソファに横たわったら、電磁式の治療器を腰のあたりにあてながら寝るようにする。

いくらかでも代謝を上げたら、痛み物質が散るかもしれないくらいの考えである。

そのまま白々と夜が明けることもあるし、いくらかウトウトできることもある。

それでお仕舞いと決めている。

 

これが、タイプの異なる痛み・不眠、精神医学的な疾患に伴う痛み・不眠まで届く射程は持ってはいないだろう、と自覚はしている。

 

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ξ

世の中には、射程を自覚せず発言する人がいる。

働かない者は、その怠惰のせい(=自己責任)なのだから喰うべからず、といった類である。

人は金持ちになる、あるいは貧乏になる自由がある、といった類である。

 

この場合、その主張が有効である人びとと、有効でない人びとに必ず二分されるから

有効でない人びとは、言うことを聞かないオロカモノ、オチコボレとして視野から区分、切り捨てるほかなくなる。

しかし資本主義的な有用性がないとして病者・障害者まで抹殺してよいことにはならない。

 

こういう薄っぺらなみっともない事態になるのは

(考えには、例外なく射程があるにもかかわらず)

射程の限界に無自覚に発言するからである。

 

ξ

いまの社会フレームを支える思想は、資本主義的な有用性があること、つまり付加価値を生み出す生産性とその産出物を消費する能力があることだ。

資本主義的な付加価値を生み出したり消費する能力に欠陥があれば、有用性があるとは言わない。

怪我や病気で資本主義的活動に支障が出れば、病院にぶちこんで、治ってよかったね、とか言われながら、さっさと社会復帰して有用性を発揮するように社会フレームはできている。

たいていの人はそれに従って生きている。

 

付加価値生産性もなく消費する能力もなければ(概して「3割の層」に入る)、その存在価値が問われたりする。*1 この層を中心とする社会フレームなどできることはない。

 

ξ

「7割の層」をターゲットにすれば、エンターテインメントもビジネスのうまくいくと考えられている。

それはそうだ、消費してくれる層なのだから。

 

思想、思潮もまったく同じで「7割の層」をターゲットにしていれば広く受け入れられる可能性が高い。

それが「3割の層」の生き方を示すことはない。

そのように、ワタシたちが放つ言葉は最初から限界を持っている。

 

ξ

資本主義が高度に徹底されれば、人の自由も平等も博愛も実現されると信じている人はいないだろう。

昔から一貫して大きな権力や財力を持つ領主、国王、皇帝らだけが自由な意思や行動を所有し、圧倒的な自由を享受してきたことは、今もまったく変わらない。

 

一方、資本主義に役立つ人と役立たない人は確かにいると、大多数は思っているだろう。

資本主義は、封建主義、絶対主義、共産主義と同様、国家の政治・経済体制の仕組みであり、可変的な社会フレームである。

ワタシたちが、いつもなんか世の中が自分に合わないと思っている根源は、今の社会フレームもまた人間倫理も、別に最終仕様ではないからである。

 

ξ

人は生きているだけで価値がある、という宗教倫理的ファンタジー

(そのルーツは、集団形成型の哺乳動物の家族・親族的な集団維持行動ではないか?)

愛と呼べるような、人びとの共通の美意識となって、人を虫けらのように抹殺することを防止してきたことも間違いないと思える。

 

ワタシたちは、資本主義的な社会フレームと近代的な人間倫理と、急速に薄まってきたとはいえ、外的環境と人とを情緒的に混淆させるような日本(東アジア)的な自然観が混じり合った社会規範の中で生きている。

しかもワタシたちは、その社会規範を剥ぎ取って、剥ぎ取りまくったあとに、はみ出している個の部分を持っている。

ワタシたちは社会規範にとっぷり浸かりながら、社会規範から外れている自分をどう生かしていくか、心を砕き続けている。

それは、ある時は耐え難い苦悩であったり、ある時はイキガイのための乗り越えるべき壁であったりしている。