これは
の続きです。
ξ
以前、伊集院光が進行役のNHK-Eテレ『100分de名著』でスピノザ(1632~1677)の「エチカ」について紹介していた。
そこでは、完全なる「自由」や「能動」は唯一絶対の神の領域、より完全に近づこうとしているものとして人間の領域があるというような腑分けをやっていた。
あーぁという感じがする。
人間の全行為・全思考において完全さを除外し、それはいつでも無限に近づくものでしかないとするのはなぜか。(数列・級数の極限値みたいだ)
人間の全行為・全思考に、完全さ・完全なる「自由」・完全なる「能動」は含まれていると考えたらいけないのか。
実際にはワタシたちは完璧とか完全と呼べる経験をいくらかは知っているし想像することもできる。
人間の全行為・全思考の幅広さ、多様性を前提にすれば
人間は、それこそ完全なる「自由」から完全なる「不自由」まで含む幅を持って存在している、と考えるのが自然なように思える。
ξ
また、完全なる「自由」とか完全なる「能動」と言うとき
うっすらと、人間にとってそれが最善、最も幸福であるという価値が入っているようにみえる。
そうだろうか。
不完全としか言いようのない「自由」や「能動」の態勢が、当該の人にとって、最善であり最も幸福であるということがあり得るではないか。
それは虐げられた環境による屈折だとでもいうのだろうか。
もちろん、こんな番組のみでスピノザの哲学に触れたとは言わない。
ここでワタシが気付いたのは、むしろ、剥ぎ取って、剥ぎ取りまくって残ったものは
考えても仕方がない領域(神の領域ではなく人間の全行為・全思考の領域だとしても)にもできるのではないかということだった。
これは慢性病患者や心的外傷当事者が、考え込んで悩み続けてもどうにもならない、考え悩み続けてもわからない仕方がないことがある
と気付くプロセスからも類推できるように思える。
ξ
人の生と死について考えてみた時
生は自分が生きているものとしてすぐそばにあるし
死はこれまた自分が病気や事故で死ぬだろうという予期や身近な他者の死(体)として誰でも知っている。
昨日も今日も明日も生きるだろう、という「人」から
剥ぎ取って、剥ぎ取りまくって残るものは何かと考えてみたら
人は生きている存在であること
そして死ぬべき存在であること
だけが否定できないものとして残る。
この生きている存在、死ぬべき存在であることは人にとって先験的だし、宿命的な共通性だといえる。
この先験的な生物的自然
なぜ生があるのか、なぜ死があるのかと問うてみても
生命科学的な説明を超えて納得できる合理的な説明があるとは思われない。
生も死も人にとって先験的なのだから考えても仕方がないとして
人はどう生きるべきか、どう死ぬべきか
と問題を立てるなら、俄然、人間的な普遍的な課題になりえる。
だから多くの人はそのように問題を立てるし、そのことで悩み続けている。
ξ
どう生きるべきか、どう死ぬべきか
と考えてみるとき
ここでも剥ぎ取って、剥ぎ取りまくって残るものは何かと考えるようにすると
- 「決着」をつけるべきものがある、「決着」をつけずに死ぬわけにはいかない。
- 死ぬまでは自分(や配偶者)の生活資金を確保しなければならない。
という具体的なものに収れんしていく。
「決着」すべきものを、具体的に考えていくと、たとえば
子育て世代であれば、日本のような先進資本主義国では、子どもは20歳前後までは親が扶養扶助しなければ社会でのスタートラインに立てないので、このことは当然「決着」をつけるべきものになるだろう。
簡単にくたばるわけにはいかない。
介護であれなんであれ、他者や後続世代に放り出してくたばるわけにはいかない事柄を人は持つだろう。
多くは避けようもない、仕方がないものである。
たいていは夢や希望にあふれたファンタジーを剥ぎ取ったあとだからパサパサしたものである。
これらは大きな成功を収める必要はないが、大きな失敗は許されないようなものとしてある。
ワタシのような半病人であれば、半病人なりに動き回って上の2つを実現していかなければならないと考えてみる。
これが、どう生きるかの方針になる。
その合間、合間に
試みの成功や失敗の泣き笑いがたくさん挟まってくるだろうし
また、パサパサしたものの慰藉を、できる限り挟んでいけばよいことになる。
これが実際に生きる時間の費やし方になるように思える。
ξ
「決着」すべきものが自分の人生に見当たらないということがあるかもしれない。
これはどう生きるかの答えが見つからないということだから
自分は果たして生きる価値があるのか、という疑問が次に用意されている。
こういう悩ましいものであるが、背負うべきものがまだ少ないという意味ではうらやましい感じがする。
しかし、たいてい人は背負うものをわざわざ探してしまうところがある。
たとえば、人を愛する、ことのように。*1