たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に不明熱で入院、急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。

剥ぎ取って、剥ぎ取りまくって残る「生」について  その3/3

これは

剥ぎ取って、剥ぎ取りまくって残る「生」について  その2/3

の続きです。

 

ξ

いまの資本制社会が嫌だと言っても

ワタシたちは生まれ落ちた途端、国籍を与えられ、何重にもなっている社会規範から自由にならない。

国籍のない無人島で独りで生きるのならば、人間と自然の論理から社会規範だけは引き算できるだろうが実現可能性はない。

ワタシたちは、社会規範にとっぷり浸かりながら、社会規範から外れている自分をどう生かすのか(生きた証)考え続けている存在のようである。

 

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ξ

それにしてもワタシたちは、いつから

どう生きるべきか、どう死ぬべきか、考え込むほど

こんなに孤独になってしまったのだろう。

 

心情から剥ぎ取って、剥ぎ取りまくって残るものを考えてみると、孤独(感)であるように思える。

心情の孤独(感)には根源があるはずだ。

その根源らしきものは見つけることができる。

 

この「軸の時代」の現実的背景は、

この時代ユーラシア大陸の東西に出現し急速に普及した<貨幣>の経済と、これを基とする<都市>の社会の勃興であり、それまでの共同体の外部の世界、<無限>に開かれた世界の中に初めて投げ出された人びとの、底知れぬ恐怖と不安と、開放感だった。

この不安と恐怖と開放感が、新しく無限に向かって開かれた世界を生きる確かな根拠と方法論を求めて、普遍化された宗教と合理化された哲学とを追求し、確立してきた。*1

 

それまで比較的狭い親族共同体・地域共同体のなかで

個人の価値も自由もほとんど自覚する必要もなく

つまり孤独などと無縁に生きていたのに

共同体の外部の世界、<無限>に開かれた世界に初めて急速に投げ出された人びとの、開放感と、底知れない恐怖、不安が

生きる確かな根拠と方法論を切に求め続けてきた、というのだ。

 

<貨幣>経済や<都市>社会の発展という、人びとの行動圏の著しい拡大が

自らの進取の精神で、または強制的な移動によりなされて

その分、共同体からポンと投げ出されてしまった「ワタシの孤独」への対処を

はるか現代までとてつもなく長い時間、人は噛みしめてきたことになる。

 

「ワタシの孤独」は、心情の孤独(感)を生み出す。

この「ワタシの孤独」は、あまりに大きくなった資本制社会のなかで「解消」できるだろうか。

 

このはるかな「ワタシの孤独」への

(ワタシだけではなかった!という)

まるで星空を見上げるような心情の揺れ具合こそ

人の恋しさ、人への優しさの、根源になっているように信じられる。

 

 

*1:

見田宗介現代社会はどこに向かうのか』、岩波新書、2018