病者のアカルさについて
病気ブログというものは不思議な感じがする。
まず記事を書くときに、その気力・体力が残っていなければならない。
急性期に意識朦朧で伏せっていたり、慢性化して精神的に極度に落ち込んでいればどうしようもない。
いくらかは体調が良い時期でなくてはならない。
そのせいか病気ブログを読ませていただくと概して明るい。
それは、はからずも性格的に明るい場合と
病気で滅入ったりしていられるものかという態勢で明るさを保っている場合と両方ある。
病人が病気をクラく書いてなんのためになるのだ、という思いかもしれない。
だから、たいていは病気に関係ない日常の出来事、体験、思考の記録になっていく。
クラい症状をクラく書くのなら、そういう独り言や呪詛が心のバランスをとるために不可欠な時期にいるということになる。
もっともやりすぎると、悲劇のヒロイズムになる。
ξ
病人は現実から離れられない。
病気をどう治療するのか、いつになったら治るのか、日常はどう変えなくてはならないのか、仕事はどうなるのか、どこの病院がいいのか、薬を飲み続けて大丈夫なのか、治療費は工面できるのか、ほかに治療法はないのか、どんな医療福祉制度があるのか。
ボヤッとは生きられない。病人は現実から遠ざかるのではなく現実に一段と近づいていく。
パシパシ迫ってくる現実に目を背けたり、その現実をねじ曲げるために心を酷使したりできない。
病者にとっては、不自由な現実が、ごく具体的に増えたわけだからその対処もごく具体的にならざるを得ない。
それに対して、ワタシが最近、気になっているのは
病者といえない健常者がほうが、はるかにクラくみえることだ。
健常者のクラさについて
ワタシは、中国南部の農村地帯を旅行した経験しかないが
技術指導で中国で長年暮らしていた先輩技術者の話を聞いて印象に残っていたのは
中国では1割(ざっと1億人)がマトモに生きられればよいと考えられ政策が組まれているという話だった。
残り9割(10億人以上)は、流れでよい、どうでもよいということだそうだ。
これは中国政府のものすごい自信を感じる。
1割くらいに収入が増えたり自由を満喫できるよう便宜を図っておけば残り9割は押さえつけることができるという自信が感じられる。
日本の人口で換算すれば1千万人くらいだが、日本ではそうもいかない、過半から7割くらいの層の不満が爆発しないように、今後も巧妙に政策が組まれていくだろうと思える。*1
ξ
フランスのコンサルティング会社によるワールド・ウェルス・レポート(世界富裕層報告)によれば
日本で1億1千万円(100万ドル)以上の「投資可能資産」(すぐ動かせるカネ)*2を持っている富裕層は316万人と急増しているそうである。
これはアメリカに次いで世界第2位、中国より多いそうである。
なるほどな、という感じがする。
大きな財力と権力を持つ少数の政治・経済エリート(超富裕層に属す)の周辺に
知的器用さと知的努力の癖が身に着いている高学歴のエリート(大企業幹部や高級官僚)が、その使用人として集まっている。
言い換えれば、この政治・経済エリートのピラミッドの低層部分は
世の中を動かすほどの才もカネもチカラもないが、言われたとおりこまめによく働く器用で高学歴な人々(「スクールカースト上位層」と呼ばれる層)である。
しかし日本でもアメリカでも名門校には裕福な子どもが集中しているという(スタンフォード大学や東京大学の)調査をみれば
政治・経済エリート全体は、どこからみても標準より上という生活を送っているだろうと想像できる。
この政治・経済エリートに
働く必要もない有資産階級やプロのトップアスリート、サブカルチャーの世界で成功している芸人など含めて
富裕層全体は316万人くらいにはなるのかもしれない。
その家族、1家族当たり平均2.33人として計700万人以上は
どこからみても標準より上という生活を送っているだろうと推定できる。
ξ
あとは才もカネもチカラも無いうえ「代りはいくらでもいる」人々から成っている。
政府がシャカリキになって進めているように労働力に不足があれば、AIなど先の話、外国人労働者でよいと判断されている。
日本の人口を1億2千万人とすれば、残りなお1億人以上の人々は生活にゆとりはないし、蓄えもたかが知れているし、大黒柱が倒れたり共稼ぎの体系が崩れたりしたら生活が一変してしまうかもしれない。
だから
「代りはいくらでもいる」大多数の人々がどう食い扶持を維持していくのかが、現在の日本のもっとも切実なこと
なのだと思える。
(病者も免れるはずがないが)健常者だというのにその心情のクラさの「現実的背景」は
・国民の大部分をなす中間的な賃労働者層の不安定さ
・明らかに国民が二分されていく固定化の進行
といった大きな流れへの恐怖・不安が根源になっていると思える。 *3
さて「代わりはいくらでもいる」当事者にとって
先のことは深く考えない、ネクラじゃダメ、「明るく陽気に行きましょお!」という対症の処方箋・処世術のあとに
どのような「迂回路」が可能なのだろうか。*4