たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。

「代わりはいくらでもいる」ヒトの反ポップスキルな生き方  その2/2

 これは

「代わりはいくらでもいる」ヒトの反ポップスキルな生き方  その1/2 

の続きです。

 

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<超>富裕層 対 <非>富裕層の対立について

 

・・・日本以外の世界各国では、1%の富裕層が99パーセントから収奪してると言って、あちこちでデモが起こったり、あるいは左派政党がどんどん台頭したりしている。

でも日本だけがリベラル政党がどんどん転落しているし、その富裕層を批判するデモなんてほとんど起きてないですね。

むしろ、消費増税とかで、どんどん庶民が生活は圧迫されていっている状況が起きている。
なぜ、そんな事が起こったのかというと、日本の富裕層は隠れるのがうまいんだと思うんですよ。

つまり1億円以上の投資家の資産を持っている人が300万人もいる、これね例えばクラスが40人だとすると、1人か2人はその富裕層の子どもがいるっていう勘定になるんですね。

だけど、みんな認識してないですよね。

何でかというと、富裕層だけが暮らす地域に住んで、富裕層だけが行くレストランに行って、富裕層だけが行く商店で買い物をする。

だから接点がないんだと思うんです。

 

 

接点がないんだ」というとき、実際には富裕層 対 富裕層のことを氏は言っているのだと考えたほうが現実的である。

 

本当の対立は支配層 対 被支配層だけである。それは現在、富裕層 対 富裕層だといっても構わない。

中間の1億円台程度の、賃労働者に過ぎない大企業幹部、高級官僚でも手の届く富裕層など、どっちつかずの保守的な沈黙の層である。

 

富裕層 対 富裕層こそ、すれ違わない、視界に入らない、互いに存在していてもすみ分けられ、「接点がない」、接点を持ちようがないカタチで本当に対立している。

往年の華族(貴族)に似た層が、どんどん形成されているというのが実感である。

 

 

「代わりはいくらでもいる」ヒトの態勢について

 

さて、富裕層、富裕層を引き算した層は1億人以上いて圧倒的多数であり

代わりはいくらでもいる」当事者同士が、意図的なフェイクに損なわれ、対立していがみ合ったり傷つけ合ったりする理由は全くない。

 

そのとき

森永氏の言う、とてつもない大転落と格差の進行

賃労働者的に言えば中間層の経済的没落と格差の拡大(=世帯収入ジニ係数の右肩上がりの増加)の時代に

冗談じゃねー!と反旗を翻し、その鍵が氏の言うベーシックインカムであると信じられるのであれば

例え10年以上かかろうが実現に立ち向かってみるのが、現在を笑い飛ばすたくましさの根源になるはずだ。

 

結局のところ、「冗談じゃねー! 決着つけずにくたばるもんか」という日常の態勢を持つ者だけが、現在を笑い飛ばすたくましさを持続できるように思える。

つまりネアカでいられるように思える。*1

 

それは、サクッと軽快に生きてみようなどと、無駄にポップスキルに励んで息切れ」し、かえって自身の貧しさだけがにじみ出た虚ろな薄笑いとは、はるかに異なっている。

 

ξ

勝者も敗者も現実である。

心を酷使して

この世には勝者も敗者も存在しない

すべての人は勝者であり敗者である

なんて無用なレトリックをこね回す必要はない。

それは

世の中には健常者も病者もいない

この世には病気などは存在しない

などと言うのと同じ構図の虚偽である。

  

ξ

病人にとって 病気はまぎれもなく現実の1つである。

現実が1つワタシに付け加わる、付加されていくということである。

つまり現実は明らかに重くなる。

このとき、他の現実が場所を失いそうになって揺れ動く。

揺れ動くので仕方なく今までの現実を整理していく。

重すぎて整理しきらなければギュウギュウになった現実を緩和する「慰藉」を付け加えていく。

そして、インフルエンザのときのようにウィルス・病原体と真っ向勝負で闘うのではなく

「病気」の好きにはさせない闘い方・生き方があるのだと(ようやくワタシは)気付く。*2

もちろん付け加わった新しい現実の出し入れは、病気の改善・悪化によって繰り返される。

  

ξ

例えば、自身の不自由・不公平・理不尽を緩和したり迂回するために、まずはカネを貯めることが条件だと確信したとしよう。

それは宝くじを買って神棚に祀っておくようなライフスタイルではない。

生活を賭けた態勢が不可欠になるはずで、その目標は必ずアグレッシブになり、極めて緻密に毎日を過ごすことになる。

自身の不自由・不公平・理不尽に対して、生活を賭けず口先だけの、無用なレトリックをこね回す態度は、世の中への呪詛を繰り返すだけになるだろう。

あるいは、美化された諦念しか手元に引き寄せられないだろう。

 

ξ

自身の不自由・不公平・理不尽に対し、生活を賭けた態勢で挑むとき世の中はわずかでも動く、という希望を早々に捨て去る必要はないと思える。

 

それらの好きにはさせない、という心身の態勢が

朝、布団を跳ね除け

あぁ、今日もコーヒーを淹れたい

音楽を聴きたい

というワタシの衝動の根源になってはいないか?  *3