これは
の続きです。
ξ
7月19日に公開された「天気の子」の新海誠監督は、これまで
孤独な少年が、電車のドアに寄りかかって外の街をぼんやり眺めるシーンや
ポケットに手を突っ込んでうつむき加減に街を歩くようなシーンを偏愛し多用してきた。
それはストーリー的必然としてはどこか過剰で、説明のつかない何らかの心的外傷を少年は抱いて生きてきたから
と思ってみると俄然わかりやすくなった。
「桜花抄」(2007)は、外形的には世の中からはみ出した家出少年と家出少女の出会いのドラマのようだが
雪の夜の二人が癒されたものは、やはり何か説明のつかない傷心であったように思える。
天気といえば、関東は珍しく雨天といつ降り出すかわからない曇天ばかりの梅雨になっているが、最近、ついに夜間のエアコン運転を始めた。
温度設定をどうしようか
タイマーは使おうか
マスクはした方がいいだろうか
加湿器はいつ出そうか *1
相変わらずの夏の行事
あーぁ
夏バテじゃなくエアコンバテになりそうだ。
ξ
参議院選投票日を控えている。
ニュースによれば雨が続いているせいで、候補者は野外の演説会場で集まった人々と次々握手して回ることもできず盛り上がらないそうである。
同じ天候上の理由なのか期日前投票数も少ないそうである。
当然、投票率の低下が予想されるから、政権与党はこの「喜ばしい」事態に息を潜めているだろうか。
反対に新聞・テレビなどのオールドメディアに関心を持たないネットユーザーを頼りにした少数政党の候補者は苦戦しているそうである。
ネットユーザーの多くは、投票に行くかどうか明瞭でない層といわれているからだ。
マスコミに登場することを許されている識者ですら、消費増税したら景気、生活水準とも悪くなると言っているのにそれは強行されようとしている。
株価さえ下がらなければ、というトランプ政権を見倣って、ひたすらな金融緩和で凌ぐのだろうか。
流れないカネは不動産、金融商品、仮想通貨への投機にハケ口を求めてさらに偏っていく。
これから増税と投機資金のだぶつきだけが本当に起こるだろうと身構えてみる。
ξ
ワタシに先立つ旧世代が、革命による集団的救済思想を放り出して何事もなかったように社会のなかに雲散霧消してしまったあとに
希望も救いも無く、ドッチラケの敗北感だけが最初からあった長い時代に
代替的なカルト宗教やスピリチュアリズムに吸収されることなく毎日を過ごすことは、案外たいへんだった。
居心地の悪い現在への反・体制を、もはや集団的に貫くことが不可能になっているときに
個人的に貫く、個人の生き方としてどうするか、とても切実なのに答えがはっきりしなかった。
ξ
ロシアは社会主義を崩壊させながら、政治的な抑圧体制は強固なままで、いわゆるスターリニズムの態勢は変わっていない。
はっきりしているのは徹底した支配構造の継続だ。
だからもう旧世代の、革命による集団的救済思想などに誰も染まることはない。
2000年以降は全く時代が変わってしまったようにみえる。
日本では、いまは定職があって、それがホワイトであるなら、ステータスだといえる。
この資本主義世界でメジャーを目指すことは大切な目標になる。
救いは資本制社会にある、そのなかで生き残ることが勝ち組につながる。
もし、それが切なさを招くことがあるなら、その慰藉も消費資本主義のなかにいくらでもある。
勝ち組も負け組も、望めばその慰藉や心の解放は資本制社会のなかにちゃんと用意されている。
アンチ・資本主義は遠い昔の話になっている。
ξ
以前国会の論戦において、若い二人が結婚をしても、住宅その他、生活が大変なので、幸せになることができないという質問に対して、時の総理がそれでもその二人はわたしよりも幸福だと思うと語って野党の猛反撃を受けていた。
わたしは野党の支持者だったが、この一点だけに関しては、自民党の総理のいうことの方が正しいと内心は考えていた。
それはこのような経験があったからである。
冬の郊外の駅前の夜の屋台で、仲のよかった人と一緒に熱いラーメンをすすっていた時今ここで死んでしまってもいいという幸福感に満ちあふれていることを意識していた。
その幸福が好きな人と一緒にいるということから来るのか、熱いラーメンの方から来るのか、どちらかは分からなかったが、少なくともこの二つが両方そろえば、それ以上のものは、自分には何もいらないなと感じていた。*2
これは、「誰でも幸福になれる、幸福は一人ひとり異なるのだから」と言おうとするとき、たいてい思いつくような話である。
人はカネで幸福が買えるわけではない、というお伽話と根は同じともいえる。
そもそも、好きな人と熱いラーメンをすするという刹那の幸福は文学にはなり得ても、不幸を免れた生活(の持続)を少しも保証していない。
ワタシの考えは違っている。
超富裕層と非富裕層の幸福は階層として異なっている。
彼らは例えば高級別荘であれ高級車であれ高級クルーザーであれ、どんなツールでも、自由に所有し、飽きたら売り飛ばし、仲間とその性能や意匠や時間を競い合って楽しむネットワークを持っている。
勢いの目立つ星野リゾートかどこかを貸し切り知人・友人たちを集め、当然、美しく知的な女性たちもたくさん集まり、ネットワークを次々広げていくような幸福を実現する力を持っている。
「富裕層だけが暮らす地域に住んで、富裕層だけが行くレストランに行って、富裕層だけが行く商店で買い物をする。だから接点がない」世界の住人である。*3
こういう階層(政治権力トップも同じ)に、恋人と熱いラーメンをすする幸福を持ち出して、その幸福の優位性を語ることに意味はない。
ξ
幸福の発見には、安定した経済基盤、生活基盤が不可欠である。
今日、明日の生活が気になる、身近な老後の生活が心配でたまらないという時、フツーの人は幸福(感)を感じられない。
幸福(感)をいつでも掴めるよう安定した経済・生活基盤を築いておくことは日々生きる目標、政治の目標になり得る。
子育て世代が、経済的困難のため能力のある子供の進学をあきらめさせるのは耐え難い不幸(感)を生むが、そこそこ安定した経済・生活基盤があって子供を志望校に合格させることができたなら、極限的な幸福(感)のなかで祝うことができるはずだ。
ξ
ワタシたちが自然界の態様や性質を記述するとき、階層を定義し区分することは普通に行われている。
同じようにこの社会で個々の人が属し、また接触するそれぞれの空間は自由度も密度も異なり非連続で歪んでいる。
好きな人と並んで熱いラーメンをすすりながらもう死んでもよいという幸福(感)は
本当は、野戦状態の荒れ果てたガレキのなか(空間A)でもあり得るし、何の変哲もない平凡な日常のなか(空間B)でも起きる体験である。
日々の目標になり得るのは、何の変哲もない平凡な日常(空間B)を実現し維持するか、どうかの方である。
ワタシは何の変哲もない平凡な日常(空間B)を、まんべんなく広めることを最も大切な政治の目標にしたい。