ξ
世界、セカイという言葉が、濫発されている超現代的なアニメや歌(主題歌)はどこか苦手である。
以前は世界とか世界中とは、地球上の国々・地域のことを指していた。
世界史とは日本以外の国々・地域の歴史だった。
いま自分(たち)を除く外部を世界といっている。
他者とか世の中とか自然とか宇宙とかいえば済むところを、意味ありげに、世界といっている。
自分(たち)とAさん、Bさんとの関係、C市、D県との関係、E国、F国との関係それぞれが具体的に対処すべきものとしてあるのに
つまり個々にバラバラに調整していくほかない関係の集まりなのに
自分(たち)以外は、世界になってしまう。
そして自分なのか、世界なのか、どちらを選択すべきなのか
狂っているのは、自分なのか、世界なのか、どちらなのか
という建て方がオオゲサに問題になったりする。
なんだろう、これは。
それは自分対「世界」という架空の対立軸を作るからである。
このとき「世界」は均質で等距離のものとなり、マルかバツかのように単純になる。
これは思考の忍耐力の欠如というほかないものである。*1
現実にはA、B、C、D、E、F・・・と個々に調整し関係を築く思考と行動をしていくはずなのに、そのような道筋は遮断されている。
こういった退行は、どこまで行ってもエンターテインメントの「世界」の出来事であり、だからこそ、人はシネコンを出ればパチンと現実に還るのである。
もしリアルの「世界」に戻っても、「世界」全てが自分に対立するものに見えたとしたら、深刻な妄想というほかない。
この背景は、何となく邪推できる。
かつてあった資本主義と共産主義の東西対立が終了すると
識者は新たな「世界」観を懸命に探さざるを得なくなった。
資本主義、共産主義を超える「世界」という言葉を濫用するようになった。
「世界」といってみると、現実との不調和、現実への違和、現実からの疎外の根源をつかめたような気分にもなって、エンターテインメントはこの流れにすぐに同調した。
もう「世界」は終わって、「世界」の次のエンターテインメントはないだろうか。
ξ
アニメ『言の葉の庭』(2013)は、高校でホサれた若い女性教師と、年の離れた男子高校生との交流の、微かな性的な快を
繊細な緑と水面と雨に柔らかく溶かしてしまう美しいドラマだった。
奈良・京都から現代までの、血なま臭い日本史をつくってきた為政者や踏みつけられ続けた身分の低い庶民・農民を思ってみれば
このアニメの軸となった万葉以来のミソヒト文字であれ
本来、いきり立つような激しい情も、感情を殺し切るしかなかったどん底の心象も、いくらでも表現が可能だったはずである。
しかしこのアニメの制作者は、男女の交流にまとわりついてしまう性的な快を、ミソヒト文字の規範に穏やかに整えて、規範的な「美」をつくってみたいという衝動があったように思われた。
この規範的な情緒は、二人の、時を経たラストシーンに至るまで変わらない。
二人が、もう少し時間さえ積み重ねていけば、歩いていける、穏やかに会うことができる、という希望をもたらしてドラマは終わっている。
少年は「世界」と無闇に対立しようとしていない。
ξ
当初、『言の葉の庭』で、なぜか印象に残っていたのは、主人公の女性教師が真昼間から飲んでいた金麦(発泡性リキュール)の空き缶だった。
ワタシはビールくらい本物で、のクチだったから、ずっと縁がなかったが
最近、金麦の味がよくなったとの情報もあって半ダース買ってみた。
この暑さのなか、ガッと飲む分には全く抵抗が無かった。
たぶん試飲比較などしてしまうとダメかもしれないが、以前に比べたらずいぶん旨くなったのだろうなぁとは思った。
水枕や冷蔵庫で凍らせた保冷材を頭の周辺に置いていろいろ悪戦苦闘(冷たすぎたり固すぎたり)している熱帯夜の毎日に、しばらくは買い続けることになるのではないか。*2