たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に不明熱で入院、急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。2019年9月から「身体・心・希望!」をテーマの中心にしています。

日記を捨ててしまうこと、夏の夜の妄想について

ξ

人は楽しみを求めてやってくるのに

ワタシの身体も心も社会もエンターテインメントも、それが正攻法でやってきたら

ワタシはちょっと斜に構えてみたり料理してみせることができない。

ひと工夫する力量がない。

 

それができたら立派な表現者だろう。

少しブログをみても立派な表現者はたくさんいる。

ワタシは正攻法で来たものに正攻法で返そうと、躍起になっているだけである。

自分にとって微かな解放になるが、それを読むかもしれない人のことを思うと暗い気持ちになる。

しかし限られている時間で、自分をわかりたい、という衝動を先送りし続け、最期に不分明のまま目を閉じてしまうのは何だか切ない。

 

ワタシが最近話題にしている新海誠監督のアニメはいつも真面目である。

作品として加工されているはずなのに、気の毒なくらいに真面目に、正攻法でワタシたちに迫ってくる。

 

(最近テレビで久々に観た大傑作アニメ千と千尋の神隠しのほうが、ずっと技巧的で物語の厚みがある。

ぜにーば(銭婆)や仲良くなった友達みんなが編んでくれた千尋の髪留めが、一瞬、キラッと輝くラストシーンは、いま観ても胸からこみ上げてくるものを抑えきれない。)

 

だから『天気の子』(2019)の観客レビューをいくつか読んでも

良かった、好むという場合でも極めて真面目な文体だし、良くない、好まないという場合でも極めて真面目な文体である。

正攻法(直球)で届いたものには、みんな自然と正攻法(直球)で返している。

みんな真面目なんだ、と思えることは救いだ。

 

 ξ

いま、引越しが事情あって遅れに遅れているので、日頃の荷物整理が「終活」と区別つかなくなっている。

高校時代から約10年間、つまり16歳頃から26歳頃まで大学ノートに書き留めた何冊もの日記が出てきた。

きっとその年頃にふさわしい切羽詰まった妄想が書き込まれていて捨てがたかったのだと思える。

 

拾い読みしながら考えたのだが

たしかに今なら決して書けない愛おしい内容、でもこれから自分はどういう時に読み返すのだろう、老いさらばえた時期に読める気力が残っているだろうか、そしてワタシ以外の誰かが読んでも全く意味のないもの、むしろ絶対読まれたくない内容に溢れている、そうであれば、もういい、もう捨てようと決めて、今回、破って処分した。

 

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Love Letter Trailer - YouTube

 

ξ

大学生の頃になると、読んだ本や当時不可欠なエンターテインメントだった映画や政治・社会的な事件への思考の、長大な文章でいっぱいである。

なかには「謹賀新年」とか「残暑お見舞い申し上げます」という書き出しの文章もあるので、手紙の下書きにも使っていた。

 

小樽を舞台にしたノスタルジックな映画「Love Letter」(1995)の展開と同じように

その頃は、相手が男であろうが女であろうが、手紙を書きまくったし、相手からもそれなりに手紙が来た。

思い出すと、ワタシは事務封筒のような無愛想なものの投函を繰り返していたが

相手からは、封筒も便箋も、そこらへんの文房具屋にはありそうもない、ずいぶん綺麗なデザインのものも多かったような気もして

書かれた言葉以外に、たくさんのことが言われていたのかもしれないと、手紙の持つ幅について、いま頃になって考えた。

そう思うと、「手紙文化」と呼べるものはネット盛隆期まではちゃんとあったかもしれない。*1

 

ξ

実際に出したかどうかは覚えていない手紙の下書きから、ごく短い無難なものを選んでみると

 

・同封写真無料サービス

・私でない専門写真屋のプリント

・このあいだ歩き疲れてしまった

・けれども

・のんびりして楽しかった

・話変わって

・いろいろ気をつかってくださった御両親に是非よろしく

・そして

・かっこう悪く「生きつづける」こと

・以上 

 

よく付き合っていたが恋人だ、とも断言できない女性だったが、どこかふたりで遠出したときにカメラに収めた写真を送ろうとした手紙だろう。

 

ほんのハタチ過ぎ、世の中をつかみたい気分いっぱいで

かっこう悪く「生きつづける」こと

なんて口走ってみる、いや、本当は彼女の同意を求めている。

まあ、これはしょうがないとして

ヘェーと思ったのは

彼女の両親に気配りしていたこと

なんだ、「公認」だったのか。

 

ワタシたちは日常の重苦しいマグマが、頭上に溢れているようなときに

ふたりでしゃがみこんで、ただ野花をながめているような時間が好きだった。

つまり将来のことは何も考えていなかった。

しかし彼女の両親はそう思ってはいなかったろう。

きちんと就職して娘を待ち構えるようなマトモな青年だけが身近にいることを期待していただろう。

 

ξ

社会にでると、ワタシはまばゆく輝く時間の速度についていくのがやっとで、膨張した観念はあっという間に吹き飛んでしまった。

 

ワタシと彼女が遠くなっていったのは

別々の会社に入って、取り残されまいと懸命に時間を追うなかで

それぞれ、新たな人間関係、男女関係が濃厚にできあがっていくときに生まれた距離感から?

もし、あとひとこと、ふたことでも二人の間にあったなら、未来は変わっていたかもしれない?  

 

いやいや、外形をなぞった「物語」は、いつももっともらしくて本当までは届いていない可能性がある。

(彼女としゃがみこんだ時間はなんだったんだろう)

過去に戻って未来を書き替えてみたい!

というエンターテインメントのような妄想がワッと湧き上がってくるのは

古い日記に触れたせいだし、寝苦しくてヒマな熱帯夜のせいでもある。