ξ
このブログのような検索流入型の病気ブログ*1の場合は、やはり検索に値するような記事を心掛けたいとは思っていた。
1つは、このくらい調べておけばいいかな、とりあえず充分だな、と自分が納得できる程度によく調べて記事にすること
2つ目は、自分の考え、見解が熟すまで記事にしないこと
を心掛けていた。
個人営利と無関係である以上、自明の姿勢である。
当初、診断名となった関節リウマチは、専門書を読み、学会のガイドラインの発表などに注意していけば、現在の治療水準は患者なりに把握できた。
また、どうすればよいか考えをまとめることは闘病に当たって不可欠だったが、自分の現在進行形の体験があまりに鮮明なので、上記の2点は、何とかなった。
ξ
しかし、病気が慢性化し、ある程度安定期に入ると
現在の心身の不調は、関節リウマチと診断される以前からあったのではないかと気が付いた。
なにもかもが関節リウマチのせいともいえないのではないかと思い始めた。
長期にわたる心身への「外傷」的な負荷に起因して現在の不調を招いていると考えたほうがよさそうに思えた。
心が、身体(関節リウマチ)から浮き上がり拡がっていくにつれ、自分自身の行方も茫漠としたものになっていった。*2
医学書のような専門書がないのである。思い付きで買い集めた本が机を占領し、ノートPCが机からはみ出してきた。
この場合、方法のひとつは、自らの心身の不調から逆流・遡上して、抽象化、一般化し意味のある知見にたどり着くことである。
これは自分自身、確証が持てるまで、びっくりするくらい手間暇がかかるものである。
だから現在の余力・体力の範囲では、納得できる程度に調べ尽くし、自らの考えを取りまとめていくという記事の作成スタイルは、次第に合わなくなっていった。
ξ
いま世の中が不可思議な激動期にあることを感じる。
たとえば政治状況を考えてみる。
過半数を優に持つ政権与党が、安保法制を次々通し、海外派兵された自衛隊がアメリカ軍の指揮権のもとに軍事行動をする枠組みが成立している。
このアメリカと完全に共同体制となった防衛予算(軍事費のこと)は史上最高額をめざしている。
いっぽう、社会保険料の国民負担は増大(社会保障費の削減)し続けているし、年金の崩壊キャンペーンは政府筋から執拗に繰り返されている。
そして小泉進次郎氏のマスメディアを挙げた盛大なプリンス・プリンセス・キャンペーンのような、政治権力の世襲的固定化、貴族化が喧伝されている。
庶民は無意識であれ
- それはどこか遠い「世界」の、縁のない華やかなできごと
- 政治なんてどの政党が、誰がやっても同じこと
と、権力への自分のアパシー(無力感、無関心)を正当化したり解毒したりしている。
このプリンス・プリンセス・キャンペーンは、(統治が容易になるよう)階層の固定化を指向する政治権力にとって実に理にかなっているに違いない。
長期の政権与党の存在が、もっぱらワタシたちのアパシー(無力感、無関心)に理由があるのかどうかはわからない。
ただアメリカ、ヨーロッパのような先進国、アジア諸国をみても、ワタシたちの政治的アパシーはかなり異常であるようにはみえる。*3
ξ
こうして考えの拡がり、射程を非社会的に狭められていく心はどこに向かうのか。
心が機能停止するはずがないとすれば
必ず身辺、身体、心自体に向かう。
コンビニの大量生産品に過ぎないスィーツのベストテンやら
隠れた町中華巡りといった他愛もない情報や
ごくマニアックな、拡がりを持ちようのない関心のやりとりに心が解放されたりする。
それは
私にもあるよ。
それぞれの街に、好きな場所、好きな人、好きな時間が。
きっとその答えは、お互いに違っていて、だからこそ発見がある。
のように、いつの間にかまん延してしまった、バラバラに個人化され決して互いの違和を争わない倫理や嗜好によって、強力に支えられている。
考えの拡がり、射程を狭められた心が、人とのつながり(=依存先)が極端に無い閉所に向かってしまえば
(気に食わない者はその閉所から排除すればよいと)身近な存在・家族に、ただ暴力をふるう(DV、虐待)加害以外に道がない。
絶望的な解放手段である。
周りが道を切り開いてくれるとも思えない。
とすれば、手間暇がかかろうと
自らの考えを拡げる、考えの射程を大きくしていく力(チカラ)をつける
しか回復とか再生の道はないように、思うようになった。
(2/2に続きます)