たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に不明熱で入院、急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。

もしも あした「世界」が終わっても

これは

今週末の過ごし方について

の続きです。

 

 ξ

人は、母に抱かれた目鼻パッチリの乳幼児のような真っすぐな瞳には二度と戻れない。

誰もが年齢を重ねてしまうと、伏し目がちに、何か取り返しのつかないことをしでかしてしまったような喪失に胸が痛むのを感じることがある。

 

(ずっと子どものままでいられたらよかったのに)

 

もし外的環境からの衝撃に

身をすくめ息を潜めるような境遇でつながりもなく生きてきたのなら

もしかしたら自分は動物やアンドロイドや怪物や異人であっても人間ではないのではないか

人間に囲まれた非人間なのではないか

という妄想に苛まれることはあり得る。

非人間 対 人間、つまり自分 対 外部世界」という融和できない対立妄想に囚われることはあり得る。

 

 ξ

街なかで繰り返される「世界」を聴く。 

 

(もしも あした「世界」が終わっても)

 

いま「世界」は、自分の外側に拡がっている、つながりの途絶えた孤独な空間の記号になっている。

ひどくマイノリティの側にいることを暗示する記号になっている。

 

なぜ、あなたがいなければ生きていけないのか。

なぜ、あなたがいなければ強くなれないのか。

なぜ、<僕>たちの向こう側は、動かしようのないカリカリした結晶のような「世界」に見えるのか。

その非人間が、ひそかに、だが、しきりに救われたがったり愛されたがったりしているのはなぜなのか。

 

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https://www.youtube.com/watch?v=2euyXWqpZIA

 

 ξ

TVドラマ「テセウスの船」は

韓国ドラマみたいに、えっ?というような無理筋のストーリーが繰り広げられる。

ただ展開のスピード感がそれをほとんど気にならなくしている。

 

我が家はTVつけっぱなしは夜9時台だけである。

10時以降はストレッチほか寝る支度でTVは点けていない。

最近は新型コロナウイルスばかりの)9時のニュースを観ているが、日曜はこのドラマをチラ見している。

そしてGYAO!でその再放送を無料配信しているので観なおしている。

 

主人公の(しん、竹内涼真は、気弱でヘマばかりで大事なチャンスを逸し、しかもそのことでしょっちゅうメソメソ後悔しては落ち込んでいるようなキャラクターだ。

 

しかし恋人の由紀上野樹里は正反対、の優柔不断さなんか全然気にならないかのように明るくを見つめている。

その由紀には、明るく家族を仕切っていた、のおおらかな母榮倉奈々の面影が重なっているようにみえる。

 

一番印象に残るのは主人公のの姉と兄になるスズ、シンゴを演じる子役の、賑やかで生き生きとした姿である。大人の俳優たちを見事に喰っている。

平成元年が舞台だが、まるで戦後のたくましい1950~60年代のような、子だくさんの騒がしい家庭へのノスタルジアを感じさせてしまう。

この子役たちがいなかったらが振り返ろうとしている過去の家族像はきっと冴えなかったろうなぁ、と思わせる。

 

第6話では、終盤の、の恋人由紀のセリフ

さん、(わたしたち)また会えますよね!」

が胸を突く名シーンだ。

がまた過去に行って未来を変えようとしている。

恋人でも立ち入ることができない。

再びが戻ってきたら未来は変わっているはず、また会えるとは限らない。

不安と希望でいっぱいのシーンだ。

 

直近の第7話では

平成元年の家族5人で30年後に開ける約束でタイムカプセルを埋めることにした。

そのときは、ささやかな「家系図」を手書きする。

そこにはかつての未来に出会った由紀と二人の間の幼子の名が書き込まれる。

そして由紀の名が刻まれた指輪とともにカプセルに収められようとする。

また会いたい、しかし会えるとは限らない、だからかけがえのない記憶を収める選択をしたシーンだ。

 

 ξ

これらのシーンに共通するのは、未来の不確実性への不安と孤独を消去していくスベ(術)をしっかり見せている点だ。

ワタシたちの不安や孤独そのものは、おそらく深い根源を持っている。*1

それは、払いのけようとしてもどうにもならない仕方がないものとして傍にある。

そしてずっと長い時代を、誰でも、人を恋しがったり、人に優しくするスベを覚えて、不安や孤独をいくらかずつ癒してきた。

 

このドラマでは、そのスベは、父、母、姉、兄そして恋人である。

ワタシたちが欲するスベを、感心するほど真正面からシラケることなく見せている。

わざわざひねくれて観る必要がどこにあるだろう。

 

ξ

未来の不確実性はどうしようもない。

新型コロナウイルスは、インフルエンザと違って、ワクチンもソコラヘンでできるウイルス検査法も治療薬もいまだ無い。

WHOの最新の情報によれば

  • インフルエンザよりは感染しにくいようである。
  • 感染した場合は、インフルエンザよりも症状は重い。
  • 世界的な致死率は3.4%で、インフルエンザ(1%未満)よりはるかに高い。

とのことである。

 

こうした不確実性のなかで、お騒がせな陰謀論がよじれて変形した、地球=「世界」終末論、破局論、パンデミック願望、リセット願望のような呪詛まで生まれ

ワタシたちの孤独に、不必要に騒がしくかぶさってきている。

 

ξ

3.11のときもそうだったが、こういう時期、人の恋しさ、優しさがこみあげてくるのはとても自然なことだ。

 

そんなとき(ワタシは)動揺することなく目先のすべきことに集中して、ひとつひとつ確実に片づけていこう。

外に集まれないのなら、誰かと文字でも音声通話でも毎日語ってみよう。

憎悪や不快や嫌悪は、投げやりにも虚無にもなること無く徹底的に論理的な声に変えて心を鎮めていこう。

それでも残る人の恋しさ、優しさへの切なさは、仕方がない、メロディーのように浸っていよう。