これは
の続きです。
断片 ⓬ 「痛み」を慰藉する記事について
自身の病気の黒歴史みたいなものを書き続けている人はいる。
それが過去の出来事である以上、必ず記憶は再編集・上書きされ、現在に都合のよい物語(フィクション)を含んでいる。
いくら非生産的であっても、アクセサリーのようにたくさんの病名を陳列した自己悲劇の物語に沈潜することで、とりあえず現在の心身のバランスを取ることはできる。
外からは、そういう前作業が、まだ必要な時期に居るのだなと思うことになる。
自己悲劇に沈潜することなく未来に歩んでいこうとするなら
現在、迫られた決断が未来に対しほんの少しであれ「普遍性(=人間と自然の論理)」を持っていなければ、ココロは芯から納得できないことになる。*1
だから自分にとっても、もちろん他者にとっても黒く塗られた個人史など、どうでもよい無関係なものになっていく。
参考:千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』、筑摩書房、2017
ξ
アップされればいつも読もうとしていた、ごくわずかな書き手は
きっと生活環境悪化や病状悪化で、次第に目の前には現れなくなった。
どんな記事でも、何か自分に言い聞かせているような特有な思いが伝わってきてしまう記事だ。
そのような記事にはウソがない。
またウソがあっても人間の心の真実には届いているような
あるいは
思わずもがいて飛び立ってしまったが一瞬真実にはタッチしていたような
感触が残る。
多くのナマの動揺とかすかな静謐の間を行ったり来たりしている、しかし動揺と静謐は混じり合わない、混濁しない、ごまかさないといったクリアな心証を持てた時の
いい人だなぁ、という読後の呟きでくくってみるほかはない。
書き手が意識的に、どうこうできないところがあります。
意識してしまったら俄然おかしくなってしまうことがあります
無意識に沈黙してしまったところに意味があったりします。
何かの拍子にココロが色合いを変える
何かの拍子にココロの折り目が垣間見える
というような記事に惹かれ接触するのだろうと思います。
しかしココロの色合いの変化や折り目のようなもののある記事は、きっと未知の誰かの慰藉になっています。*2
それらは、人生ヒツマブシ、ワタシのような当たり障りのない身辺雑記や床屋政談などと異なっていた。
しかし生活費を稼ぎ出すようなド派手なメジャーとも無縁だよね、といった感触だった。
ひょっとしたら、この超高速ネット時代の明滅には合わない書き手だったかもしれないと、いま遠目に思ったりする。
断片 ⓭ 人間は、どこに向かって歩いているのか
日本人である自分について、当然ながら
日本人とは何か、日本人はどこからきたのか、日本人はどこに向かって行くのか
と考えることはあった。
主として朝鮮半島を経由した大陸系は、弥生期以降のたいへん新しい時代の人々になるので、それより古い原日本人のルーツを考えていたことになる。
このとき大きくは北方系や南方ポリネシア系の2つのルーツが語られる。
たぶん列島への渡来時期は異なる(南方ポリネシア系の方が古いようだ)にしろ、北方からも来ているだろう。
縄文期の北海道・東北の遺跡群はたぶん北方系だろうが、列島西南部との交易・交流もあったとみられている。
縄文期以前から列島にあまねく拡がっていた小さな部族群の暮らしや交流の豊饒さを空想してみるのはなんとなく楽しい。
ξ
断片的にわかる縄文期の世界観(習俗、伝承)は、圧倒的に中国の影響を受けてしまう古代国家の成立前の世界観のひとつとして興味深いが、それが現在の日本人にどのように引き継がれているのか、あるいはもはや引き継がれていないのかはワタシにはわからない。
日本人の起源論は庶民であるワタシには残念ながら娯楽になってしまう。(しかし同じく起源のはっきりしない古代日本語はワタシたちの思考パターンに影響しているかもしれない。)
ずっと若い世代には
日本人とは何か、日本人はどこからきたのか、これから日本人はどこに向かうのか(ナチス風の純血主義や戦前日本の専制主義みたいだ)ということはどうでもよく
人間とは何か、人間の起源=人間はどこからきたのか、人間はどこに向かっているのか
という問いのほうが、よほど普遍的でピンとくるのではないか。*3
そういう問いによって、ポスト・現代(ポストモダンではない)を考える世界の潮流に結び付く可能性がある。
それは資本主義的価値観、近代的ヒューマニズム、それらのベースだろうキリスト教的世界観などが、すべて過渡的なものであり最終仕様ではないことを確認することになるかもしれない。 *4
《追記》
これで「下書き」の編集(蔵出し)は終わりです。これからは気力・体力の範囲で、新テーマの新ブログを考えてみたいとも思います。