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人は言葉に固まりそうな時間と言葉に固まりようのない時間の両方を持っています。
朝起きて、布団を畳み、顔を洗い、ばたばたと家族の朝食を用意するような毎日の時間は言葉に固まりません。
病気と無縁に夢中で疾走している時期も言葉に固まりません。
それが突然途切れて寝たり起きたりの生活に逸脱したとき、言葉に固まっていく時間を意識します。
しかし病気が日常化してしまえば、いずれ言葉に固まりようのない時間に変わっていきます。
同時に、言葉に固まらない、朝起きて、布団を畳み、顔を洗い、ばたばたと家族の朝食を用意するような毎日の時間が、実は一番大切な時間なのだと気付くようになります。
モノを書くなんて以外に、本来の生活の道標があることが本当に大切です。
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低スペックの自分は何をメシの種にして稼いだらよいのか。
あなたを頼りにせざるを得ない家族をどう守ったらよいのか。
あなたが逃げられない老親の介護をどうしたらよいのか。
こんなことを少しも始末できない、こんなことに少しも接触しない、頭の上を通り過ぎるだけの天上のフィクションは、騙し合いと狂気のカラ騒ぎ。
ワタシたちはすでに学んでいます。
だからフィクションなんて剥ぎ取って剥ぎ取りまくって残るものは何か、考えることが今もっとも大切なのだ。
と言ってみても、これも新たなフィクションなのだ。・・・・・
フィクションを自然に創り上げてしまう、フィクション無しに生きられない習性は
ワタシたちの先験的なものとして取り合えず棚上げにし
偽装かも知れない社会規範、社会正義、世間智というフィクションを徹底的に洗った方が良いように思われる。・・・・・
無効・無駄なフィクションは、たいてい耳当たりが良く、心地よい響きで、誘惑的に近づいてくる。
純粋まっすぐに革命の大義など信じると、「彼ら」の使用人たちに翻弄され利用されるだけだ。・・・・・
この社会の構造や仕組みがうすらぼんやりと見えるようになったあなたは、そのような空騒ぎに巻き込まれてはいけない。
この考え方は、「何をしても世の中は変わらないよ」と斜に構えるニヒリズムではない。・・・・・
「彼ら」が繰り出す現象を眺めつつ、その現象の奥にある真実について考えつつ、その現象に侵食されない自分を創り生き切ることだ。(藤森かよこ氏)
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ワタシ同様、滅多に記事を更新しない書き手もいます。いろいろな場所、いろいろな方法で別に自己表現している可能性もありますが
それよりむしろ、言葉に固まりようがない日常の時間を、毎日きちんと消化しているせいだとワタシは思いたくなります。
ブログ初期の頃、言葉に固めることを、望んで、望んでどうにもならない時期がありました。
その背景は、時の話題などまるで無関係の、転落感や孤独感ですから仕方ありませんが、当時の気負いは懐かしくもあります。
たった150程度の記事の処分(?)を始めてみて、懐かしく思えたものを選べば次のような記事でした。
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