たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年初めに不明熱で入院、急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつドラッグフリー寛解を目指す。そしてゆっくりとリウマチ治療について考えていきたいと思います。

《ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」》を読み出す

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一枚のグラフから

最近ある雑誌で、把握可能感と反芻傾向というグラフを見ました。

これは

自分の身に起きていることの規則性を把握できるようになるほど(把握可能感の横軸)

取り返しのつかない過去の出来事をくよくよと思い悩む傾向が低くなる(反芻傾向の縦軸)

という実験結果を示したもののようです。

言い換えれば

自分の苦労の解釈や解決を専門家に丸投げする単なるユーザーではなく

自ら研究者として引き受けること自体が、生きやすさにつながることを示唆するものとしています。

 

この感じはすごくわかるものです。

膠原病、関節リウマチという周辺の知人に自分でもうまく説明できない不可解な病気に罹り

とりあえず無我夢中の急性期を脱すると

もうもとには戻れないかもしれないという絶望感が高まってきます。

こうした自分の溜息を減らす方法は

この病気の原因、診断法、治療法、予後、闘病の諸注意などを徹底的に理解することしか無いように思えました。

自分の罹った病気のことがわかるというだけで

日常の苦痛のみならず過去、現在、未来の後悔や絶望が減るだろうと思われたのです。

自分の身に起きている事態の予期可能な把握感が

くよくよ思い悩む時間を減らし苦痛を軽減するという心の現象のようなものを研究している人が

世の中にはいるんだと思いながらこのグラフを何度も眺めたのでした。

 

このグラフは熊谷晋一郎氏(小児科医、東大先端技術研究センター准教授)によるものです。

熊谷氏には「痛み」に関する対談集*1があります。

この対談集から「痛み」についてスッと解決する読後感はありませんが、「痛み」に関する興味深いテキストであることは間違いありません。

関節リウマチ患者の痛みは解決するのか、解決法があるとしたら解決に向けてどうしたらよいのか

この本のページを順にめくりながら思いめぐらしてみたいと思いました。

 

リウマチ患者には侵害受容性疼痛、神経障害性疼痛、非器質的疼痛が、すべて!ある

急性疼痛とは、身体のどこかに痛みの原因があり、その原因を取り除けば痛みも消えるという類のものです。

しかしどうもそのような痛みばかりではなく、次々とドクター・ショッピングを重ねて原因らしきものを取り除いても、まったく痛みがとれない、それどころかどんどん悪化するという方もかなりいます。

その痛みを慢性疼痛と呼んでいるのですが、この慢性疼痛がなぜ起きているのかについては、まだ充分に解明されていません。

しかし最近の痛みの研究の現場では、おそらく過去の痛みの記憶が、神経の中に記憶、痕跡として残ってしまっている、それが過去の記憶として成仏せずに、フラッシュバックのように現在の記憶として思い起こされているという状態ではないか、ということがわかるようになってきました。

要するに、原因のない痛みとは、「痛みの記憶」なのではないだろうかということが言われるようになってきたのです。(中略)

物語化・意味づけできる身体の感覚は痛くないことが多い。

ところが、「この痛みは何だろう」とまったく意味づけできないときに、その感覚はいつまでも痛みつづける。

どうもその物語化・意味化との関係でこの慢性疼痛を捉える必要がありそうだということまで臨床の現場でわかってきました。

(本書19~20ページ)

 

僕の経験では、関節リウマチでは、炎症や組織損傷によって生じる痛み(侵害受容性疼痛)と

末梢神経に損傷が生じたことによる痛み(神経障害性疼痛)に加え身体的損傷が確認できない痛み(非器質的疼痛)が

すべて!入り混じっているように思えます。*2

リウマチ患者には、最初に侵害受容性疼痛が起こるのが普通だと思いますが

次第に神経障害性疼痛と非器質的疼痛が起こって来るようです。

たとえば足趾が関節炎を起こし腫れたり熱感があったりして痛むのは明らかに侵害受容性疼痛ですが

それが引いてもピリピリヒリヒリするような痛みが長く消えません。

担当医は、急性・慢性関節炎の結果、末梢の神経が損傷を受けた可能性があると言っています。

つまり神経障害性疼痛です。

 

これは仕方のない痛みであり、

痛みとして末梢が信号を送っても身体に危険はないのだと中枢が認識するまで治らないようです。

損傷した末梢神経は、ある意味間違った情報を中枢に送り続けますが、

僕たちが、痛みとして認識しても無駄ですからね、と信号送信する(放置する)時間を蓄積すれば消える可能性がありそうです。

 

もうひとつ炎症や神経損傷の場所と関係なく、身体の芯からズキズキとする痛み、気分が落ち込んだ時のアチコチの痛みがあります。

これが非器質的疼痛です。

これも関節リウマチに原因があると考えられます。

なぜなら発病以前の僕は、運動後の筋肉痛と肩こり以外は無縁だったからです。

たぶん、じっと寝ていても寝返りを打とうとしても呻きたくなるような生涯初めての疼痛の記憶が

自分の中枢に仕舞いこまれているのではないかと考えています。

この記憶を仕舞ったり開いたりする脳神経の構造は僕にはわかりません。

熊谷氏のいう慢性疼痛、「痛みの記憶」とは、この非器質的疼痛と一致すると思われます。

熊谷氏は関節リウマチの痛みを侵害受容性疼痛+神経障害性疼痛心因性疼痛(非器質的疼痛)全体で捉えようとしている珍しい医師です(本書63ページ)。

 

 リウマチ医が対処できる痛みとは炎症痛だけと思うべきだ

リウマチ医が抗リウマチ薬と消炎鎮痛剤を用いて対処できるのは、侵害受容性疼痛です。

関節リウマチとは多発性関節炎を主症状とするのですから関節の炎症度をひたすら下げることが第一義とされます。

患者としての僕はそのことに気が付かず、いろいろなタイプの痛みを訴えてきました。

しかし抗リウマチ薬と消炎鎮痛剤で対処できる痛みでなければ無駄な訴えなのです。

CRPやMMP-3が下がってくればあとは湿布でも、ということになるしかないのだ

リウマチ医は自己免疫疾患の専門家であって別に痛みという症状の専門家ではないのだ

と諦めたのは、神経障害性疼痛と非器質的疼痛と思われる痛みが出るようになってから相当時間が経過した後でした。

ちなみに手元の2、3のリウマチ医向けの解説マニュアルをみても

痛みについての記述はステロイド、NSAIDsによる炎症痛対策にとどまっているのです。

 

今の痛みを整理して未来の痛みを「予期」してみる

僕は自分の痛みの克服について、敗北に次ぐ敗北を重ねてきたのでしょうか。

本書を読むとそうでもなかったのではないかと思います。

熊谷氏は、「物語化」、「意味づけ」という手法を説明しています。

僕は「物語化」という手法は知りませんでしたが

関節リウマチの痛みも3つに分けられることを知り、僕の場合もそのようだと気づき、自分の痛みを場所別、質別に仕分けしてみたのです。

これは自覚的には「冷静に客観視したかった」ということになります。

 

ところで「物語化」といっても

明日になってもこの痛みは消えないはずだとか

1か月後には薬が効いて炎症は軽減するはずだとか

未来の予期が不可欠ですから必ず医学的知見のような客観性が必要なはずです。

その一方、情報に対する納得が必要なので「物語化」は個人毎に異なるとしか言いようのないプロセスです。

僕のしてきた「冷静な客観視」も自分が納得するためですから

実は「物語化」と大差ないだろうと言われればそのようにも思えます。

 

その結果、痛みが現実に軽くなったのかどうかはっきりしませんが、痛みに追い立てられるようなことがなくなったことは間違いありません。

具体的には

やるだけのことはやっているのだから、あとは湿布を貼るしかねーじゃねーかと考える。

痛くなる時があってもハイハイとつぶやくことにしてやり過ごす。

夜中に痛くなった時はヤレヤレと起きだしてオマジナイのように鎮痛薬を飲んだり湿布を追加して、さっさとベッドに戻る。

つまり自分の痛みを整理、仕分けしてみたことにより、メンタルに追い込まれることは激減してきたのです。

当初は

痛みで寝付かれなかったり繰り返し目が覚めたりすると

なんてことだ、こうして自分は衰弱していくのか、モルヒネでも打つしかないのかと

予期できない将来不安から胸をかきむしりたくなるようなメンタルな「痛み」が上乗せされていたのです。

メンタルに追い込まれることが激減したとは、自分の痛み対策は失敗していたわけではないのではないかと思うのです。

 

リウマチ医を「物語化」していたかもしれない

急性期が過ぎた3人目の担当医の頃には

医師に言うべき話、言っても仕方がない話が次第に分かるようになりました。

言い換えれば担当医との付き合い方を覚えていったのです。

こうして担当医は、饒舌に、ズバズバと医学的知見を述べるようになります。

本日の患者の気持ちを考えることなく、です。

 

本書を読み始めて気づくのですが

僕は、破たんしない範囲に限定した医師とのやりとりを楽しんできた可能性があります。

そのために言いたいことが全部言葉に出てしまう正直者の減薬主義者という

僕の担当医像の物語を作ってきた可能性があります。

だから他の患者がもつ印象とは思いっきり違っているかもしれません。

それは何のため?

目の前の医師から軋轢無く僕の疾患に関する最大限の知見を引き出すためだったのでしょうか(痛み以外の)。

 

僕のなかでは「物語化」した担当医像に作為や無理を感じないのです。

それどころか自分の作った担当医像に洗脳されているようにも感じます。

この人は本当は学会や大学から疎まれるくらい優秀なのではないかと(笑)。

この「物語化」の結果、僕は案外よいリウマチ医に出会ったことになるのかもしれません。

 

本書冒頭の、慢性疼痛の「物語化」による緩和という意外な手法の記述は、さまざまな連想を呼び起こすのです。

 

*1:熊谷晋一郎ほか『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』青土社、2013年

*2:

 

yusakum.hatenablog.com