たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年に急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治を目指しています。

「身体」と「心」について読むと、 (3)

 

心の異常について ―――― 霊感・霊魂・精霊・神々

 

原生的な動物においても、外界に対して逃走攻撃捕食をし排泄生殖を繰り返して生存しているのだから

みずからが外界から区分された存在であるという「自己意識」を、明らかに持っています。(脳が形成されていようがいまいが関係ありません。)

 

しかし逃走攻撃捕食排泄生殖する「自己意識」に伴う欲望、情動といったや、その身体を「自覚」できるのは、脳・中枢神経の発達した人間に限られています。

 

それらの「自覚」がまだ薄暮のようにうっすらとしていただろうネアンデルタール人ら近縁人類に比べ

現生人類ホモサピエンスは、はるかに高度で明瞭な思考を繰り広げるようになりました。

 

近年、ネアンデルタール人の化石からそのDNAが解読された結果、ほんのわずかな遺伝子の相違であるにも関わらず

ホモサピエンスは、それまでのネアンデルタール人とは革命的に異なる脳を持って出現したようにみえました。

 

脳の外形的な比較をすれば、ネアンデルタール人の頭蓋骨内容積は1490mlホモサピエンス1350mlほどであり

ホモサピエンスの方がなんと約10%も小さくなっているそうです。

しかしホモサピエンスの脳の神経回路は複雑に密集していることが知られ

現在のところ、動物として脳の大きさを競うよりも高度なネットワーク化の方向に人類は進んだように見えます。

 

それまで感覚、感情、論理、生命維持などの脳の各領域の認知・応答(記憶・反応)はそれぞれ分離していたが

ホモサピエンスはその全領域を横断できる複雑なニューロン結合が可能になったらしいのです。*1

 

脳の全領域を横断する複雑なニューロン結合は、身体や外的環境の知覚だけでなく

脳が脳内を激しく巡回して新たな知覚を生み出し、それによる新たな思考を可能にしてしまうことになります。

したがって、外部刺激の知覚や思考とは別に、思考を思考するといった奇妙な抽象的能力まで持つようになりました。

 

この結果、言葉、歌謡、物語、舞踊、造形物(装飾品)そして文字など思考を抽象して外化する、著しく人間的な能力(=人間的なを持つようになりました。

ネアンデルタール人ホモサピエンスの遺跡の出土物からもその歴然とした能力差がわかるとされます。

 

ξ

これはかなり異常なことといえないか?

刺激 ➡ 感覚器官 ➡ 脳・中枢神経 ➡ 応答という線形的な伝達系は、反射に支配される原始的な動物から、AI型ロボットに至るまで変わらないように見えます。

 

しかし、人間においては、脳を介在させた知覚は、いかようにもデフォルメでき、どんなに過剰にも、どんなに過少にも、何も無かった(無知覚)ことにすらできる、としか言いようがありません。

 

その結果としての応答(記憶・反応)も、同じく、いかようにもデフォルメでき、極端に過剰にも、極端に過少にも、何も無かった(無反応)ことにも、神懸った異常行動すら成し得る、としか言いようがありません。

これは、幻視、幻聴、その他の幻覚といった異常な知覚まで人間の感覚に広く認めることになり、かなり薄気味悪いことにならないか。

 

ξ

人間の知覚と思考を(まるで宗教的荒行・肉体的苦行をしたかのように)極限まで突き詰めてしまえば

生み出される知識や経験は自己の日常の思考の秩序の外に、自身の身体という固有の隔壁の外に飛び出してしまうほかなくなります。

 

このときの極端な知覚や思考は、日常の認知の水準を超えてしまう=超越される(意識変性)ことになります。

 

日常の思考の秩序にとても収まらないのでその知識や経験は

まるで身体の外からやってくる(天からやってくる)霊感というものにみえることがあります。

自らの思考そのものでありながら外からやってくる(天からやってくる)超越的意識として自覚されるようになります。

時には外からやってくる霊魂、精霊、(々)のような超越者の存在を自覚することもあり得ます。

 

この特殊な知覚や思考は、人間には避けられないもののように言われることがあります。

「絶対超越とは、ユダヤ一神教に見られるような(その)経験の延長線上には絶対に届くことはないが、にもかかわらずそれなしではすますことができないような、超越にかかわる経験である。」河本英夫氏/哲学、2014)

 

 

ξ

ホモサピエンスに訪れてしまうこのような極限的な知覚や思考は、確かに奇妙で怖ろしいように見えます。

通常ワタシたちは、深い眠りのように身体に任せた不随意の知覚・思考(生物次元)と、拡張極大化した知覚・思考(超越次元)中間のほどほどの日常に生きているからです。

 

しかしホモサピエンスの、日常の思考秩序が破れるようなときの共通体験として

❶ 知識や経験が外部からやってきたような思考が訪れること

❷ それが何か貴重な、大切にしたい偉大な知識や経験(恩寵)にみえること

は確かにあり得るでしょう。*2

 

ξ

霊魂・精霊・神々、その派生である怨霊・悪霊・悪魔などと人間が無縁に生きられたのは、ここ数百年の話で、それ以前、数万年にわたって人間の心や身体は、超越的な存在と共に生きてきたと考えられます。*3

 

善なる神々も、悪なる神々も併存して人間に関わりを持ってきました。

人間の心と身体は、善なる神々だけを想像(=創造)することができないからです。

病気を癒す神もいれば、病気をもたらす悪霊もいるというように。*4

 

しかしながら、身体によってなされた表現(創造)のすべては現実のアナタのものでしかありません。

天から創造神がアナタに舞い降りたりすることはありません。

身も蓋も無いようですが、すべての人間は、(身体である脳が主座)身体活動のみによって思考を表現(創造)しているのだから、そこに何の神秘性もないと考えています。

 

 

*1:

参考: 中沢新一『神の発明』(カイユ・ソバージュⅣ)、講談社、2003

*2:

yusakumf.hatenablog.com

*3:

yusakumf.hatenablog.com

yusakumf.hatenablog.com

*4:

yusakumf.hatenablog.com