たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年初めに不明熱で入院、急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治!を目指しています。

拡張する心、自分を「他者」として切り分けること【断章2/4】

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ξ

1年半、細々と続けていると、自分のブログの性格がわかってくる。

余暇はリハビリ(体操やウォーキング)が最優先、かつ気力・体力の範囲内のことなので、長すぎた記事を半分に分ける以外、連投ができない。

日本ブログ村ふうに区分すれば病気ブログであるが、間遠の更新でも、継続的に見ていただいているような感触がありひたすら感謝である。

このストレスフリーの低位安定型ブログには満足している。

 

最近いくつか、病気もリハビリも全く関係ない「時の話題」を考えていた。

それらはパーッと読まれ、社会の関心が薄れるとともにパーッと消えていくのがわかった。記事が消費されている感じがわかった。それもありがたいことである。

 

僕のような工学系の人間にとって、自己の外部への関心は違和から始まる。

現場では、異音、振動、発熱の3つの違和を見逃さないよう訓練されてきた。

今後も、違和から他者を考えていくのだろうなぁと思った。

 

 

曖昧な自分への不安

 

僕はもっぱら身体的な慢性疾患を語っているが、「見えにくい」発達障害などの当事者には、いくらか似た、しかしあきらかにより多くの「曖昧なことへの不安」があるようだ。

 綾屋発達障害の概念のうち、特に「コミュニケーション障害」という概念は恣意性が高く、中身があいまいで具体的によくわからないものです。

そのため私たち当事者の中には多かれ少なかれ、診断や専門家言説に対する過剰な可視化、同一化、重度アピールなどが生じがちです。

(中略)

あるいは当てはまらなかった場合、「診断がなくなったらアイデンティティの崩壊だ」と落ち込む。

それから、前はできていたのにできなくなったり、大げさにふるまったりして、ことさらに専門家言説に自分の行動を寄せていくことがある。

障害名を勲章のようにいくつも名乗ることもあります。

とはいえこれらはいずれも当事者のせいではなく、見えにくい障害であることや診断基準が曖昧なことへの不安から生じていると感じています。

 

上岡:はーい! 私はアル中で薬中で摂食障害でーす!(笑)

 

綾屋:そんな感じです。*1

 

 

拡張する心

 

ヒトの認知行為を考えてみる。

僕らの身体は、外部環境を認知する。

例えば温度が高いサウナに入ったとする。

僕らの身体は、鼓動を速め血圧を上げ汗をかかせ外部の変化に対応しようとする。

身体はあきらかに外部環境を区分して認知している。

 

次に、心は、鼓動を速め血圧を上げ汗をかいている身体を自分から区分して認知できる。

 

さらに心は、鼓動を速め血圧を上げ汗をかいている身体を「暑いと思っている」心を認知している。

そして汗をぬぐったりしている。

心は自分の心を区分して認知できる。

 

さらにまた心は、暑いと思っている心を「こんな程度で暑いと思う心は修練が足らないな、やれやれ、と自虐している」自分の心を区分して認知できる。

 

このように、人間が人間たる所以で、心は次から次と自分自身を他者として遠ざけるように認知することができる。

 

だからヒトの心は、その生物的自然を簡単に乗り越えて拡張できる。

これはおそろしいことで、ヒトは『ダーウィンが来た!』(NHK)に登場する愛らしい動物たちのように、自分の生物的自然を予定調和的に実行するとは限らない。

脳神経の器質的異常にまで至っていなくとも

ヒトは生物的自然に根差す情愛を遠ざけ、親子間の殺害という残虐さを発揮してしまうような、異様に拡張する心を持っている。

 

 

自分を「他者」として切り分けること

 

心には、どこまでが自分で、どこからが自分でないのかという問題がつきまとう。

自分とは、本当は何者を指すのかという問題にもなる。

たいていは「曖昧な自分への不安」がぬぐいきれない。

 

これは、自分をいくとおりにも分けて社会的に表現することが可能であることも意味する。

医師の診断を受けるという場面を考えてみる。

怪我や急性疾患は、身体の損傷、異常を特定しやすく、その結果、医療の対象となる部分・症状を自分から外部化して認知しやすい。

つまり敵=他者はわかりやすい。

医師が理解可能な場所で自分を切り分ければよい。

 

慢性化した場合、患者はかなり困惑する。

症状自体が俄然伝えにくくなってくる。

漠然とした倦怠感、絶えない痛み、しびれ、脱力、吐き気、けいれん、胃腸障害、食欲不振、感覚異常など、伝えにくいもどかしさに患者は様々考えをめぐらす。

 

病気の長期化により廃用や自律神経の異常が起こり思いがけない症状が出てきた

長期的な薬の服用による中毒症状やポリファーマシー問題として出てきた

病気の長期化から精神不安になって出てきた、あるいは精神疾患を併発した

新たに悪性の疾患を併発した

というように思いめぐらしては否定し、再び思いめぐらす。

 

「教科書」に症状が見当たらない、診断基準はどのようなものなのか、診断名はつくのか、どこの医者ならわかってもらえるのか、それとも検査数値や画像に出ない限り医者には伝わらないものと思うべきなのか。

自分をどこでどう切り分けたらよいのか定まらない。

 

もしも空気を読まず一から十まで滔々と症状をしつこく演説し続けたなら、ロクでもない医師に当たってしまえば、(心気症やら詐病やらミュンヒハウゼン症候群*2の類の疑いで)どこか別の科に行ってくれとなるかもしれない。

 

だから、どこかに記述された典型症状に自分の病状を合わせ、それ以外は語らないようなことも普通に行われる。

ヒトは、他者へ伝わりやすいよう自分自身を切り分け他者として加工している。

 

*1:

発達障害と依存症の仲間が交差するところ』、綾屋紗月+上岡陽江現代思想8月号、青土社、2017

綾屋紗月氏 アスペルガー症候群(高次機能自閉症)当事者

上岡陽江氏 ダルク女性ハウス代表

*2:

ミュンヒハウゼン症候群 - Wikipedia