ξ
マジョリティ対マイノリティという対立軸は一様ではない。
社会規範、習俗によって異なるようにみえる。
以前は問題にならなかったのに今は事件になる、あの国では当たり前なのにこの国では違う、ある層には人権尊重的に振舞うのに、ある層は暴力的に抑圧する、というように。
ヒトを生命、進化という視点で最先端の研究者から見ると「マジョリティ」とは次のようなものである。
たくましく走り続ける、機敏に動くというヒトの行動がもたらす骨への振動・刺激の結果、骨細胞は骨を作り出す指令を出すのみならず
記憶力をアップせよ!
免疫力をアップせよ!
筋力をアップせよ!
精子製造をアップせよ!
というメッセージ物質を全身に送り出している。
身体能力に優れた者は、さらに生存に有利になるよう、記憶力、免疫力、筋力、精力を連動的に向上させていくというのだ。
これがNHKスペシャル「人体」で、あっけらかんと冷酷に語られている。
人類の正統な「マジョリティ」とは、優れた走力、俊敏な行動力(=狩猟力)を持つ者であり
その持続的な骨への振動・刺激が、骨格のみならず記憶力、免疫力、筋力、精力をさらに強めるようシステマティックな仕組みを持っているようなのだ。
イメージでいえば敏捷で筋骨たくましい男性が「マジョリティ」だ。
そしてもう一つの性である女性は、そのような男性に性的な美を感じ魅せられていくヒトが「マジョリティ」だ。
このようにしてヒトはその生存を強固なものにしてきたようだ。
先端の研究者らによるこのような発見と理解は容易に変わらないだろう。
ξ
病気になるとこれらは理解しやすい。
リハビリひとつとっても、身体の生物的自然を促す方向に回復の手立てが組まれているのに気付くからだ。
この身体的な「マジョリティ」は
優れたヒトのアカシであるかのように
進化の必然としてヒトの善であるかのように
病者にはいくらか落ちこぼれ感覚を伴って迫ってくる。
もしも戦争や国家的規模の災害が起こり、平常時から非常時になれば、人類学者・医学者らに言われるまでもなく
敏捷で筋骨たくましい男性と安産・多産の女性が強者として、進化論的「マジョリティ」として、前面に出ざるをえないだろう。
ヒトの多様性という価値はどこに行ってしまったのだろう、平常時だけの華奢なものだったのだろうか、となるかもしれない。
ξ
病気になって、(情けないことに)初めて気づいたのは
身体を離れていくココロは、身体の可動域を超えて価値を見出し続ける、ということだけではない。
身体とココロ双方から成り立つヒト・トータルについて、いくら身体から説明されようと、それは不完全な説明に過ぎないと、だんだん確信するようになったことだ。
TVドキュメンタリーが、それとなくしかし冷酷にヒトの遺伝子的必然を語ろうと、それは僕の半面であるということだ。
「マジョリティ」から外れていても、身体の運動能力を開花させようと鍛錬し続けている人はいるし、部屋のベッドに籠りっきりだって豊かさあふれる安堵の世界を築いている人もいる。
ξ
身体を離れていくココロは、精神文化、短期的には時代のファンタジーを生み出す。
高度な精神文化を持つ縄文時代の特集番組を観ていたとき、墓跡から発見された18歳程度の女性の遺骨について説明しているシーンがあった。
彼女は小児麻痺を患っており歩けない状態だったことが知れた。
だから明らかにその生命は慈しまれ長らく他者によって介護されていたことがわかるという(当時は平均寿命30歳代だったそうだ)。
なんとなく背景に、①移動生活ではなくすでに定住の時期にあったこと、②共同体間の戦闘は比較的少なかったこと、③いくらか生産余剰が発生する時期にあったこと、は想像できる。
しかし生産余剰など現在とは比較にもならないはずだ。
それにもかかわらず、成長なくして福祉なし、生産年齢人口が減少しているのだから付加価値を生み出せない層の福祉カットは当然、というネオリベ的なキャンペーンがはびこっている。
互いの生命を慈しむ(=福祉)かどうかは、経済計算ではなく精神文化の問題に過ぎない。
仮に互いの生命を慈しむことが、まるでタブーのように不可侵の価値とされていたなら、余剰を生み出す個人も企業も相応の負担に躊躇すら思いつかない全く別の社会を考えることができただろう。
ワタシたちに自己超越的な神はいないので、ヒトの「自由」とか「平等」とかが天賦のもの(生まれつき)だったことはない。
ヒトのココロが、社会との違和のなかで「自由」や「平等」を見出し、ヒトと社会の関係指標として意味を持たせてきた歴史がある。
ヒトの半面がココロからできていると考えれば
日常の不幸を次々作り出す得体の知れない存在である一方
ココロを合わせることができるし、思潮・文化をつくることもできるし、そのために闘うこともできる。
だから、まだ捨てたもんでもない、と生き続けることもできる。 *1