たかがリウマチ、じたばたしない。

2015年初めに不明熱で入院、急性発症型の関節リウマチと診断された中高年男子。リハビリの強度を上げつつ、ドラッグフリー寛解≒実質完治!を目指しています。

続・「男はつらいよ」の遥かあと、別れの空虚について小論

これは

「男はつらいよ」の遥かあと、別れの空虚について小論

の続きです。

 

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ξ

もし抱えている日常が、過労や過度のストレスの原因とならないのであれば、いくらか嫌な業務であっても、規則正しい毎日をもたらすものとして受け容れたほうがいいと思う。

朝、布団をはねのけて起きたり、体調を何とか整えようと自制したり、栄養を考えた食事をしたりできるからである。

鬱屈していても11月の遊歩道の深呼吸

爽やかさや気持ちよさを感じられる程度に世界を赦せるのなら、毎日を受け入れてみる穏やかさを保てるはずだ。

 

ξ

「歌は世につれ、世は歌につれ」と、昔は言われていたと思う。

「喧嘩辰」(1964)という演歌*1は、あまりに古びて聴こえるので、歌を生み出すココロは、どのように変化してきたのだろうと思ってみた。

つまり変化の文脈はどのようなものだろうといろいろ思っていた。

 

しかしすぐに挫折した。

つまり、文脈の不在こそ現在の歌謡曲の真実に近いのではないかと思われた。

今どき、大義だの正義だの真顔でばら撒けば、失笑を買うのがオチになるだろうが、エンターテインメントの世界では、今でも「勝ってくるぞと勇ましく」とやってみることはいくらでも可能である。

 

一方、かつてのボブ・ディランやそれをソフト化したPPM反戦フォークのような政治的メッセージを強く打ち出すことも可能である。

 

また、社会思想的なものをシャットアウトして内閉的、自己還流的に虐げられたココロの救済、解放、慰藉を行ってみることも可能である。

 

最初は、現在、歌謡曲は内閉的な自己還流的な世界にシフトしているのではないかと思ってみたが、バランバランという印象を覆せなかった。

 

現在のエンターテインメントのキャパシティの広大さとか底の無さとか、何でもありの凄まじさは、文脈の不在と思ってみるのがちょうどよい感じがした。

つまり「歌は世につれ」までは当たっていそうだが、「世は歌につれ」という傾向はほとんど掴めないように感じられた。

 

ξ

(し)のココロが損なわれた時に、どうにか気取って生きられそうな外部のファンタジーも廃れてしまったり不在にみえた時

宙に浮いたのココロがどこに向かっているのかいくつか確かめてみたいというのなら

恣意的に買い集めた手元の音楽CDによっても、赦されるのではないかと思った。

 

大義だの正義だの民族だの国家だの底上げされた企業文化やあまたの宗教のような外部のファンタジーにすっかり醒めてしまった人々の損なわれたのココロは、どのように慰藉されたがったのだろう。

「喧嘩辰」から20年後、1980年代を今は飛ばして、さらに20年後、現在の手前、2000年代の「別れの空虚」を歌ったポップスまで行ってみる。

 

ξ

君が旅立つ日は

いつもと同じ「じゃあね」と手を振った

まるで明日もまた

この街で会うみたいに

・・・・・ 

君がいない街で

相変わらず元気に暮らしている

それが今私に

できること そう思うから

・・・・・

この広い世界はつながっている

白い雲は流れ風になって

君のもとへ

 

私の声は届きますか?

あふれる気持ち言えなかった

私は君にとっての空でいたい

哀しみまでも包み込んで

いつでも見上げるときはひとりじゃないと

遠くで思えるように

帰る場所であるように

 

クリスタルケイ「Motherland」、「鋼の錬金術師」エンディングテーマ、2004)

 

大義正義のかわりに、「別れ」のあとに出てくるものは夢、星、祈り、空、明日、眠り、白い雲、風のようなものである。

こうしたものは自然物であったり、空想的で掴みようのないものであるが、これらはすべて遠くなってしまった「君」に結び付き飾り立てる言葉になっている。

 

「あほう承知で おしとおす」だの「なにわ節だと笑っておくれ」というような仁義や汗臭い体臭は全く感じられない。

粘っこい気分や体臭のようなものが無闇に表面化することを固く禁じてしまっているようである。

 

別れてサバサバした、もう顔を見ないで済む、やっと別の男と暮らせる、さあ新しい出発だといった現実のうんざりへのリセット感も完全に秘されている。

人気コミックによるもう一方の流れにある、もはや「ぼっち」でいるしかない自分が、弾けるクラスメートを、バカで発情したチャラ男、くそビッチと罵倒するような悪態も表面に上らせない。

 

あくまでも遠い「君」ばかりを見ている。

今のまま決して変わらない「君」を畳んでパックしてしまいたいかのように、高みに押し上げたままでいる。

もしリアルの世界でこれほど唯一の「君」にこだわると、いささか執着的な心的異常を感じる。

 

作詞家はまったく意識していないかもしれないが

「君」はすでに死者である、あるいは戦地に動員されていると思って聴いても何もおかしく感じられない。

「君」の不在の空虚な情緒は、政治・社会的環境とは無関係に歌えるはずだと信じられている。 

この時、外に行き場所を失ったココロの、それでも注視されたい、かまってもらいたい、救済されたいという願いが

被虐的、自傷的、自己憐憫的な場所を必要としている。

 

<君がいない街で相変わらず元気に暮らしている / それが今私にできること そう思うから>

 

ここは、この歌の中で唯一、リアルな意志をみせている部分であり、傷になった空白の振り払い方が、痛ましく、危うく、孤独で、幼く感じられる。

 

痛ましく、危うく、孤独で、幼くみえるのは

必ず起こるかぶさってくるものとの衝突を笑い飛ばしてしまうような、たくましさ、穏やかさまで自分を届かせようとする前に

被虐的、自傷的、自己憐憫的な場所に浸かって、可哀そうな自分!を抱きしめようとするからである。(続)