1.『リベンジgirl』のあとに
今年の下期は、週末の雨模様ばかりでなく、体調不良や再び杖に頼るような足の痛みが続いて
絶好のシーズンにゴルフから遠ざかってしまった。
もう走ることまで望まないが、ワイワイとやる運動から疎遠になるという事態を、まだよく受け止めることができない。
それは思いっきり背伸びをする快を失っていくからなのか、いままでのヒトを徐々に失っていくからなのか判然としない。
病気になってネクラになった。
病気自体はゆっくり波打ちながら回復しているはずだから、周辺の世界が変わったせいだろう。
自己超越的な世界への帰依、入信は、僕の選択肢にはない。
また、カラ元気を仮装しても身が持たない。
ネクラに過ごす時期を僕は避けない。
この時期しか文章なんて書けない。
ξ
クリスマス連休の、23日(土)公開初日に『リベンジgirl』という映画を観にいった。
桐谷美玲を『100パーセント』で初めて顔と名前を知ったというくらいが僕のレベルだが
年末公開の映画があるらしいと聞いたとき、その不器用な女性会社員役がピッタシだった『100パーセント』の<城之内さん>を思い出して、行ったれ!と思った。
予告編のとおり
現在の、階層の世襲的固定化の典型のひとつ、政治の世界に、負けるもんか!と手ぶらで挑むストーリーである。
鈴木伸之が、いま風のイケメンのどこかクズれた感じが一切しない、こんなに古風でいいのだろうかと思うほど古風に桐谷をサポートする、絶大な信頼感のある男子を演じている。
肩の張らないお正月映画らしいコミック的なラブ・コメディーである。
でも、その題名の『リベンジgirl』が
「誰ソレに負けるもんか!」から
「誰ソレのために負けるもんか!」に
変わっていく、あきらめない女子の成長物語にもちゃんとみえるようになっていたと思った。
2.マジョリティのなかで「大人になること」
僕らのせいぜい100年の生涯というスパンにおいて、自分自身の成長の仕方をどう考えたらよいのだろう。
もし、マジョリティと呼べる層のなかである意味順調に成長できたなら、それは「大人になること」と、素直に受け容れてよいかもしれない。
一方、マジョリティからはずされ、マイノリティと呼べる層で生き続けることになるなら、成長とは「子どもでなくなること」を強いられるものと言ってよいかもしれない。*1
ヒトの成長を、マジョリティのなかで「大人になること」と
マイノリティのなかで「子どもでなくなること」に分け
「大人になること」を僕の慎ましい経験を中心に
「子どもでなくなること」を脚注書などから
しばらく考えていた。
ξ
いまは昔
新婚のワタシたちは、北国のとある賃貸マンションに移り住むことになる。
引越しの夜
各室ともだいたい帰宅しているだろう時刻に
同じ階段の家(上の階、下の階)には挨拶に行った。
留守宅が無ければ7軒に同じ挨拶を繰り返したことになる。
後日、そのうちの一軒の奥さんから聞いた話だが
ドアを開けて、立っているワタシたちを初めて見たとき
まるで柳沢みきおの青春漫画(『翔んだカップル』(1978~1987)など)の主人公のように、パァーッと輝いて見えたという。
社会経験の乏しさ、未熟さは隠しきれず
年長の女性には一瞬でわかってしまうようだ。
しばらくこのファミリーマンションで出会うことのなかった年代の
一種初々しさが、ちょっと新鮮だったのかもしれない。
キラキラ光って見えたと言われても
いまでいう、キャラが立つ、といった雰囲気は皆無の、地味な共稼ぎ夫婦であって
二人とも緊張で、肩を四角にしたまま棒立ちになっていたに決まっている。
先住者たちは、幼児から高校生くらいまでを抱えている世代であり
ワタシたちが明らかに異なっていたのは
世間知らずの幼さ、危うさを持ったままの子供のいない新婚夫婦であったことだけだったが
こういう「新入生」には興味津々だったろう。
もちろん、ようこそ!という好意と
あらあら、あの子たち、家庭を築いたり、家族を守ったりなんていう堅気な暮らしをちゃんとやっていけるのか見もの!という姑じみた興味と、両方あったろう。
とにかく垣根は低かった。
大人の近所付き合い、そして地域交流というものを生まれて初めて学び、溶け込んでいったといえる。
とりたててワタシたちに取柄はなかったのだから、最大の理由は、若さだったと思う。
幼稚園やら地域の運動会ではいくらでも走る!ことができた。
次第に気の合うヒト、気の合わないヒトはできていくが
気の合うヒトとはよく付き合ったり、気の合わないヒトとはなんとなく疎遠になったりするだけで
わざわざはっきり除外するとかいがみ合うとかはなく、関係の濃淡はありながら、大きなまとまりを崩さないよう誰もが配慮していたと思う。
若いワタシたちを仲間から外さないよう、また仲間から外してもワタシたちがそれに気づかないよう先住者たちの誰かが配慮していたと思う。
共同体を無難に取りまとめていくには、誰か中核になる人格の練れたヒトが要る。
ξ
ある日
同じマンションの奥さんが、幼い子を妻に預けてちょっと外出したそうだ。
ワイワイ遊んでいるうちにお昼寝タイムになり、その子は座布団の上で毛布をかぶって可愛く寝てしまった。
我が家には、当然、乳幼児用の寝具はないのである。
やがて、奥さんが戻ってきて予想外の出来事に驚いたそうだ。
この子がよそのウチで昼寝したのは初めてだったそうだ。
しかも母親がいないのに昼寝したというのも初めてだったそうだ。
妻が、この小共同体のなかで、ひとつ昇格した!瞬間だった。
ξ
ある共同体のなかで、マジョリティとして生きようとしたとき、暗黙の、しかし強靭な規範が間違いなくある。
軋轢さえ起こさなければ、規範は穏やかに行使される。
共同体に険悪な空気を招かないよう小さな気遣いを積み重ねている限り、それはとても居心地の良い場所であった。
誰がその共同体から外れようとするだろう。
やがて、まるでそのマジョリティの規範に沿うかのように妻は身ごもった。
近しかった人は狂喜してバタバタと訪れ、そうでない人々も儀礼的な祝辞を欠かさなかった。
ξ
マジョリティでありたいと願う理由は、その圧倒的な安堵感にある。
逆にいえば、マイノリティであることの不安は半端なものではないだろう。
それは疾患ともいえる心的異常を招くことがある。*2
命に関わる苦悩を強いられない限り、可能であればヒトはマジョリティのサイドで成長したほうが幸福であると思う。
多様な自由な価値観の共存が容認されないからという机上の不満で、健康にも生活にも困ってもいないのにマジョリティから飛び出すなど、到底煽る気にならない。
問題は、アナタがたまたまマジョリティーの側にいただけなのに、無自覚に尊大に傍若無人に振舞ってしまうときがあることだろう。
共同体内外のマイノリティーの側から指弾されて初めて自覚したり、逆切れして開き直ったりするのは見苦しい。
マジョリティからの除外は、どのみち手のひらを返したようにアナタを見限ったマジョリティの方からやってくる。
理不尽だと思ってもアナタには抵抗不能なカタチでやってくる、としか思えない。