これは
の続きです。
加害的マイノリティの一つのパターン
人が、絶望や呪詛を超えて、自分ではもはや制御がきかない加害的マイノリティに至るかどうかはわからない、直接は結びつかないと考えています。
現実には、絶望や呪詛を持つ人々の多くが、加害的マイノリティに移行することはありません!!から。
どういう場合に加害的マイノリティになってしまうのか、いくつかあると思いますが
たとえば、救済的カルト集団への帰依、洗脳またはそれに近い心的過程で
自らを自己超越的な理念(存在)と切に一体化させようと
どこまでが自分でどこからが自分でないか、自己と理念(存在)が全く線引き・峻別されることなく自己を喪失し
ただ理念(存在)に繰られているだけなのに、この世における自己のミッション・役割を仮構したくてたまらない致命的な習癖の持ち主、選ばれし頭の持ち主が加害的マイノリティになる、と思っています。
言い換えれば
絶望や呪詛とは次元の異なるココロのカタストロフ
① 自己喪失したままの ② 自己ミッション仮構、という未成熟性、幼児性を剥き出しにしたココロの過程
に捕らわれたマイノリティが存在する、と思っています。*1
監視・拘束と厳罰・隔離という選択
日常の苦労を、人とのつながりのなかで慰藉したり、娯楽やネット空間で息抜きしている限り、あまり問題はないのですが
加害的に振舞う一部マイノリティやその予備軍が社会的に全くダメなのは
より弱者、よりマイノリティを差別し暴力を振るおうとすることです。
自身が「黙っていれば討ち死」してしまう状況にいるのに、より強いものと対峙する絵を描くことも無く
そのために人と力を合わせていく道筋など考えることも無く
絶対殺傷できる相手しかターゲットにしない未成熟性、幼児性を抱えた一部マイノリティがいます。
いまの社会フレームを回すとき、効率こそ最大の価値とする機構(システム)はヒト、モノ、カネそして情報のロス率を必ず計算しています。
こういう世界に馴れてしまうと
残虐で理不尽な事件が耳に入れば、やはり人にも大きなロスがあるのではないかと思うようになります。
この加害的マイノリティの境遇やら内面に介入したところで、人間の一生の時間スケールで解決できる処方箋が出るわけでもないとすれば
(オリンピックを控えて政府筋が進めているように)事前的な監視・拘束の強化と事後的な厳罰・隔離という外形を選択していくことになるでしょうか。
ワタシたちは、あたりあまねく拡がっているイマソコニアル異常に怯えても、それに対し無力な非武装の手段しか持ちません。
だから加害的マイノリティを、事前的に監視・拘束し、事後的に厳罰・隔離するような権力による自由のはく奪(そのための法的整備と警察・行政体制の拡大)は黙認・賛同されやすくなります。
まるで近未来サスペンス映画(たとえば『マイノリティ・リポート』)を連想する、加害的マイノリティに対する高度に抑圧的な監視環境こそ、ワタシたちの自由と生命を守るのだと
(ポリコレ人権主義者の、無神経さにかかわらず)一般庶民は急速に、確信し始めていると思います。
7割の層をターゲットにした社会の回し方
7割の層の感性や購買力をターゲットにすれば
小説・映画のようなエンターテインメントから衣食住すべての商品開発・販売はうまくいくと考えられています。
高級戸建住宅の、大きく透明なガラスサッシに吊り下げられたレースのカーテンが、穏やかに揺れるリビングのソファで、優雅にうたた寝しているコマーシャル映像が
経済的な低位カーストをターゲットにしているわけがありません。
アンチ競争社会的なゆとりある趣味的なライフスタイルへの志向、仕事はワクワクするものを選ぶべき、などというのも強者特有の発想です。
また政治においても、上位層+中間層が5割を切れば、政権転覆や社会不安・暴動が起きると考えられているかもしれません。
7割くらいの層のライフスタイルとその原資となる所得がまずまずのところにあれば
大きな不満は起こらないだろうと目論まれているかもしれません。
3割の低位カーストの不満の爆発があったとしても
7割の層のそれへの嫌悪(手段が駄目だ、話し合いでなければ!など)をうまく誘導し、警察・司法により叩き潰すこともできるでしょう。
そう思うと、7割の層の幸せとは、社会を支配的に回す限り、相当合理的ではないかともいえます。
7割の層のための社会が強力にすすんでいる
こうして理解しがたい、理解したくない「彼ら」(=加害的マイノリティ+3割の層)とは、すれ違わない、目を合わさない、視界に入らないようにすみわけ
「冷淡」「無関心」のなかに放置する、「苛烈」にロスカットすることは
どんなにココロを安らかにするだろうと想像できます。
この、「彼ら」を排除したい心性を異常とも思えないのは
個人の内面に介入しても仕方がないし、もはや脱落した層の問題を考えなくとも済むよう
すべての国民に無条件で一定の収入を保証するベーシック・インカムを政策として支持する識者もいたからです。*2
ワタシが驚いたのは、例示されたベーシック・インカムという制度ではなく、脱落している層のことはもう考えないで済ましたいという割り切りがその根拠となっていたことです。
これは自分のことで精一杯という庶民感情のキャパシティに合っているし
したがって「彼ら」に対する「無関心」、「冷淡」、人によってはその自己責任を問う「苛烈」さにも合っているし
また3割の層と結び付けられやすい加害的マイノリティを(貧困などの言い訳を許さず)排除・厳格処分したい正義感にも合っています。
理解しがたい、理解したくない「彼ら」をドラッグして「ごみ箱」にストンと落とすサバサバしたリセット感にも合っています。
いざとなればどうにもならないという現実への怯え、つまり7割の層の生命不安を背景に
「彼ら」をまとめて冷淡・無関心・抑圧・鎮圧をキーワードに厳しく区分する、7割のヒトのための社会が強力にすすんでいることを
ワタシも、ひしひしと感じます。