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6/25に「パーフェクトワールド」最終話を観た。
コミック版、映画版、ともに知らずドラマ版はつけっぱなしのTV「チラ見」で時々観ていたが、最終話はまともに観た。
この種のドラマはハッピーエンドに決まっているので、父親(松重豊)が、娘(山本美月)と恋人(松坂桃李)の結婚をどう許すのか、その許し方に関心を持って観ていた(ネタバレあり)。
きっとワタシの年のせいである。
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父親は車椅子の身体障害者である恋人との結婚には絶対反対である。
自分は娘を(父親の代わりに)背負うことができる、守ることができる相手と結婚させたい、アンタのような身体障害者では背負うこと、守ることができないじゃないか、娘は健常者と結婚させたい
というような言い分である。
「7割の層」*1にフツーに暮らす父親としてまともな、全く正当な意見である。
しかし恋人は父親に結婚の許しを得ようと、繰り返し父親の元を訪れる。
そのうち父親は心臓発作で入院、手術となってしまう。
父親は生涯初めて自分自身が車椅子を使い、リハビリに努めるはめになる。
娘は「お父さん、今年もみんなで初詣に行こうね!」とリハビリ中の父親を励ます。
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父親は、病院の廊下の窓越しに、院内の庭園で娘と恋人がベンチで寄り添っているのを見る。
父親は、恋人が父親のもとへ押しつけがましく見舞いに訪れるわけでもなく、離れた庭で2人、手を重ねて、慎ましく愛を育んでいるのを見る。
父親は、この恋人は娘の役に立っているのかもしれないと思い始める。
退院後、父親は恋人に会いに行き、娘との結婚を承諾する。
自分は、娘を背負ったり、守ったりするのは物理的にできるかどうかだと思っていた、しかし病気の自分を支えてくれた娘を、アンタが毎日のように支えていたのを知った、娘を背負ったり、守ったりすることは身体が不自由でもできるのだと気が付いた
というようなことを娘の恋人に言う。
言うまでもなく、「背負う」「守る」という意味が拡張されている。
この拡張によって、健常者と障害者の区分が取り払われ納得に至っている。
父親は、アンタは娘を背負えるんじゃないか、守れるんじゃないかと思えるようになる。
しかしこれは、どこか調子のいい、へんに美化された、まことしやかなウソ
でまとめたような話にもみえる。
恋人が介助が必要な障害者である現実は変わらないじゃないか、自分は娘をアンタの介助ヘルパーとして認めた覚えはない、これらは何も解決していないじゃないか。
父親が娘の結婚を受け入れようとするとき
実際には、理屈じゃない、どこか目をつぶって飛ぶ、エィッという飛び越しが必ずあるように思える。
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ところで、結婚は当事者の自由だ、親なんか関係がない、というのであれば、2人での逃避行(カケオチ)が選択できる。
そのとき、完全に親とは衝突するだろう。
自分たちの好き勝手に生きていいはずだ、社会規範なんかどうでもいい、逸脱!アウトロー!も人生だ、というわけだから
恋人と娘は、地味にコツコツと2人の生活を組み立てていくことなど、まずできないだろう
そこで生活に行き詰って、一度縁を切ったはずの親にカネ送レなどと臆面も無く擦り寄ってくるだろう
という先行きが、親にしてみれば目に見えていることになる。
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しかし恋人は、父親の許しが出るまでは、結婚できないとして父親のもとに通い続けていた。
これはちょっと凄みがある。
これは社会規範への深い恭順ということができる。
父親は、父親本人がどこまで自覚的であるかどうかに関係なく
必ず恋人の社会規範への深い恭順のアカシを探している。
恋人は、娘を路頭に迷わせることはない程度に建築士としてちゃんとした職をもっているようにみえた。
恋人は、娘と手を取り合って、できれば子供もいるような家庭を築くことが娘にとって最高の幸せなのだと、そのためにどんな努力でもしようと、強烈に思っているようにみえた。
あと解決できないのは、身体の不自由な障害者と健常者の非常時の困難をどうするかだ。
ええい、ちきしょう、オレと女房が死ぬまで、いくらか近くにいればいざというとき何とかなるだろう、いいや、もう
と父親は娘の結婚について決断できそうになる。
(とワタシは想像する)
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結婚式の終わりに
恋人は、2人で頑張りますがそれでも足りなかったら、どうか私たちを「助けてください」と挨拶する。
これは感じが出ている。内閉するのではなく人とのつながりのなかに自分たちを放り出している。
そのとき、いちばん最初に拍手をした父親は
わかってるぜ、そんなことはもう、と言いたかったようにもみえる。
見どころのシーンだと思える。
社会規範への深い恭順のなかで実現される愛は
慎ましさと周囲に祝福された安堵に満ちている。
鮎川(松坂桃李)も、つぐみ(山本美月)も、これが求めていた愛だ!というように
ダイニングルームの静かな食卓の場面からドラマのエンディングが始まる。
それはもちろん、つぐみの父親(松重豊)の望んだ幸福でもあった。
絵にかいたような小市民的な幸福へのあこがれが、ひたすらに率直に語られているようにみえる。
有名な韓ドラ「冬のソナタ」(2002)の運びにも似ている。
それは現実の、男女のありふれた幸福な「暮らし」が、いまや遠いものに見えてしまうから?
「暮らし」という日常の平穏さが、もはやファンタジーとして紡いでみるほかないから?