ξ
新聞記事だったのか何かの本にあったのか忘れたが
死期が近くなった夫が
「生まれ変わったらまた君と出会いたい」
と語ったところ
妻は、ゾッとして実に嫌な気分になったという趣旨の文章が記憶に残っている。
よくわかる気がする。
哺乳類の子供は好奇心あふれる冒険の真似事やじゃれ合いをすぐ始めるし
肉親に抱かれた乳幼児はキラキラと好奇心あふれる瞳で他者や周囲を見回している。
このように好奇心が人間の生物的自然の基本的な要素だとすれば、いろいろな人と出会いたいと思うのは当たり前で
もし生まれ変わったら別の人と出会いたい、暮らしたいと思うのも当たり前だと思える。
次の世があると空想して、そのときどんな人と出会うのだろうと考えることはきっとワクワクするに違いない。
たいていの男はバカだから
「生まれ変わったらまた君と出会いたい」
と言えば遠回しに愛情や感謝の表現になって、女は喜ぶはずだと思いたがる。
ワタシは突然死でないかたちで妻に先立つことになれば
感謝は口にするが、もう一度君と暮らしたいとは言うまいと思う。
妻だって別の人生があればまったく別の人と出会いたいだろう。
ξ
成人男女の持続的関係では、若年であれば生物的自然との対応がとても色濃く
いつも一緒にいたい
あなたしか見えない
あなたさえいればいい
あなたのいない人生なんて考えられない
というように心が動く。
その快も、伴う疼痛のような苦悩も
不可避的で、どうにもならない感じがある。
こういう若年時の、性的な快の濃厚さは、生命の存続という原初的な生物的自然のせいだが
それを時間方向に持続しようとしたとき、ふたりは「守りたい」「守られたい」衝動として意識していくことになる。
これは外形的な男性は「守りたい」側、女性は「守られたい」側というものではない。
実際の夫婦の関係をみれば、完全に入れ替わっていたり、時期に応じて変化したりする。
これは性的な快を日常的に持続しようとするとき、ほとんど自動的に起きる経験である。
「女房子供ために一生懸命働きたい」という気負い、美学は、性的な(きずなの)快を日常化しようとするとき、フツーに起こる心情である。
TVドラマ「大恋愛~僕を忘れる君と」(2018)では、カネのかかりそうなセレブな妻のために、ムロツヨシがコミカルに演ずる、倒れるまで懸命に働こうする夫の姿も、夫婦の(きずなの)快を日常的に引き伸ばそうとするフツーの行動である。*1
ξ
順調な夫婦関係(または成人男女の持続的関係)では、家族・構成員は「守る」側、「守られる」側に分離される関係にあること、それを無条件に受容する関係にあること
をフツーに経験していく。
当初の若年時は「君を守りたい」と言ってみたい、メスの奪い合い宣言に過ぎないマンガ的な衝動であっても構わない。
敵の銃弾のなかを逃げまどい「君を守れなくてゴメン」とか言って瀕死の彼女を抱きあげてみるSFアニメの感傷的な快に惹かれても構わない。
成人男女の持続的関係の、「守る」「守られる」という分離を自然に受容していく前段だからだ。
いずれ「守りあう」という日常的な関係の快を経験していく。
そして扶養扶助され、もっぱら「守られる」側の命があることも当たり前のように経験していく。
必ず訪れる生物的自然が希釈・緩和される時期を過ぎても、この心的な快は継続することができる。
これらは、たいして波乱万丈のない夫婦の歩みだろうが、この程度に維持することが難しい時代になっている。
ξ
人の命について考えてみた時
杉下右京の
「だからといって、アナタが人の命を奪ってよい理由などありません!!」
という上ずった絶叫や
キムタク検事の
「一人の命より大切なものって、なんか、あるっすか。」
といったセリフを超える倫理がワタシたち庶民にあるだろうか。
刑事ドラマでは、これを超えるものは、いつも
「公安」とか「組織」の倫理として、「たかが一人の命」を踏み潰すように登場してくる。
現在のワタシには、杉下右京やキムタク検事の倫理観を乗り越える倫理が浮かばないし、これでイイ、充分だと思っている。
ワタシたちは、はるかな呪術的な古代から、生まれ落ちた途端、社会規範から独立した個人であると同時に社会規範を構成する一部であるように生きている。
人は、自分の一部である社会規範を(どうせ人が創ってきた歪んだ空間なのだから)常に変更していこうとする切実な衝動があるようにみえる。
この衝動は、官房長(岸部一徳)の言うような、正義はオマエ(杉下)の正義だけでなく、立ち位置で変わるんだよ、という規範と衝突している。
だから、どのみち個人の倫理は既存の社会規範と闘わざるをえない倫理としてある。
ξ
成人男女の順調な持続的な関係では
性的な快を時間方向に膨らませた「守りあう」というリアルな日常の快を経験していく。
また、扶養扶助され、もっぱら「守られる」側の命があることも当たり前のように経験していく。
戦前・戦中の証言ドキュメンタリーを観ていると、夫の暴力、子殺しはいくらでもあったし、それらは家という前近代的な制度に押しつぶされて、個別の特殊事件になっても社会問題化することは少なかった。
だから今頃になって証言ドキュメンタリーで明らかにされたりしている。
今は夫婦(または成人男女の持続的関係)は個人間の自由に解消可能な契約という概念に変わっている。
いまさら「教育勅語的な家族観」など持ち出して、日本を取り戻す!などとアナクロなファンタジーを叫んでみても勘違いの類である。
今はドメスティック・バイオレンス(DV)や虐待は直ちに社会問題化されるし、そうでなくてはならない。
しかし家族制の崩壊はあきらかなのに、それに代わる命を守るインフラの不完全な事態が続いている。
家族・親族が数世代・多数同居して救済的な弾性を持つ東南アジア的な居場所はもう望めないのに
先進資本主義国のセイフティネットの整備具合がどのようなものかわからないし、まして日本が進んでいるとも聞かない。
だから個人がリスクを背負って踏み込み、踏ん張らなければならない事態が続いている。
それこそ関係者全員が年老いて、この世から消えてしまう日はいつ来るのか、と思うときもある。
DV被害周辺は当事者同様に、エンドレスの日常になっている。